①安政7年の城跡碑
②城跡碑
③現地案内板
訪問日:2014年5月
所在地:愛知県岩倉市
織田信安は岩倉城主で尾張上四郡守護代・織田敏信(伊勢守家)の子とされるが異説もある。幼くして岩倉城主となり、清洲三奉行・織田信秀の弟で犬山城主・織田信康の補佐を受けたという。
信秀の妹・岩倉殿を正室としたが、信秀の死後、信康の子・織田信清と争い、信秀の跡を継いだ織田信長とも対立し、天文22年(1553)家老の稲田大炊助を信長に内応したとして殺害する。
弘治2年(1556)信長の岳父・斎藤道三が息子の斎藤義龍に討たれると義龍に呼応、同年、信長の弟・織田信勝(信行)が兄に叛いた稲生の戦いで信勝に与した。
弘治3年(1557)長男・信賢を廃し次男・信家に家督を継がせようとして失敗し、信賢に追放され、美濃の義龍のもとに逃れた。その信賢も永禄2年(1559)岩倉城を信長に包囲され、数ヶ月の籠城の後に降伏し追放された。
信安は義龍の家臣となり、義龍の死後はその子・斎藤龍興にも仕えて信長と戦った。龍興が滅ぶと信安は京都に逃れている。
その後、上洛した信長に赦されて美濃に所領を与えられ、信家は信長の嫡男・織田信忠の家臣となった(天正10年甲州征伐で討死)。3男・剛可正仲も安土総見寺の住職となった。
信安は天正19年(1591)に死去したとされるが、慶長16年(1611)に正仲が示寂したのち、法号の玉甫として総見寺住職になったという記録もある。また旧臣・山内一豊のもとで慶長19年(1614)に亡くなったともいう。
以下、現地案内板より
岩倉城跡 昭和49年2月15日市指定
岩倉城は文明11年(1479)頃織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は弘治3年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌2年3月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政7年(1860)に建てられたものである。
城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は弘治3年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌2年3月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政7年(1860)に建てられたものである。
岩倉市教育委員会