改)和泉 大津城(真鍋城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①南溟寺

イメージ 2②南溟寺

イメージ 3③城跡碑

 

訪問日:2014年4月

 

所在地:大阪府泉大津市

 

 真鍋貞成は永禄11年(1568)和泉淡輪の土豪・真鍋貞友(七五三兵衛)の子として生まれた。貞友は真鍋水軍を率いて織田信長に従い、その命により大津に移されて佐久間信盛に属した。

 

 天正4年(1576)貞友が第一次木津川の戦いで討死したため家督を継ぎ、叔父・真鍋豊後守の後見を受け、天正8年(1580)佐久間信盛の追放後は蜂屋頼隆に属し、天正10年(1582)甲州征伐にも出陣した。

 

 本能寺の変の後は羽柴秀吉の家臣で岸和田城主となった中村一氏に従い、天正12年(1584)には雑賀衆と結んで淡路島から和泉に攻め寄せた菅達長の200艘1000人の水軍を破った。

 

 天正20年(1592)に始まる文禄・慶長の役にも出陣し、文禄3年(1594)伊予に3,500石を与えられ豊臣家の直臣となるが、慶長4年(1599)尾張清洲24万石・福島正則の家臣となる。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後に安芸広島49万8千石に移封された正則に従って4千石を与えられたが、元和5年(1619)正則が改易されると、豊前小倉の細川忠興から1万石で誘われるが断って浪人した。

 

 貞成は広島のキリシタン13名がローマ法王へ宛てた手紙に署名をしており、キリシタンであったと思われ、反キリシタンとなっていた忠興を拒否したのかもしれない。

 

 その後、将軍・徳川秀忠の命により、紀州和歌山の徳川頼宣の人材募集に福島氏旧臣の大崎長行・村上(来島)通清とともに応じて紀州藩士となった。明暦2年(1656)89歳まで生きた。