改)石見 石見銀山 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①五百羅漢

イメージ 2②広場から山吹城

イメージ 3③下河原吹屋跡

イメージ 4④龍源寺間歩入口

イメージ 5⑤龍源寺間歩内部

イメージ 6⑥熊谷家住宅

 

訪問日:2013年3月

 

所在地:島根県大田市

 

 井戸平左衛門(正明あるいは正朋)は寛文12年(1672)御徒役・野中重貞の子として生まれ、元禄5年(1692)井戸正和の養子となる。

 

 元禄10年(1697)より表火番、元禄15年(1702)より御勘定を務め、享保16年(1731)19代大森代官に抜擢され、直後に笠岡代官を兼務した。

 

 同年末から翌享保17年(1732)にかけて悪天候が続き、梅雨からの2ヶ月に及ぶ長雨が冷夏をもたらし、西日本を中心に享保の大飢饉が起こる。

 

 平左衛門は領民らを救済するため、幕府の許可を待たずに年貢の減免・年貢米の放出・官金や私財の投入を断行する。

 

 また同年、大森の栄泉寺で薩摩国の僧・泰永から救荒作物としてのサツマイモの有用性を知り、種芋を移入した。

 

 その年は種付けが遅かったため思い通りの収穫は得られなかったが、やがて石見を中心にサツマイモの栽培が定着し、平左衛門は「芋代官」「芋殿様」と称えられた。

 

 しかし享保18年(1733)備中笠岡の代官所にて61歳で死去した。激務による過労死とも独断の年貢米放出の責任を取っての切腹とも言われている。