蝦夷 松前城(福山城)② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守・本丸御門

イメージ 2②本丸御門

イメージ 3③御門内側

イメージ 4④本丸御殿玄関

イメージ 5⑤天神坂門

イメージ 6⑥七番台場

 

訪問日:2018年11月

 

所在地:北海道松前郡松前町

 

 松前崇広は文政12年(1829)松前藩9代藩主・松前章広の6男として福山館で生まれた。24歳年長の兄・松前見広はすでに文政10年(1827)23歳で亡くなっていた。

 

 天保4年(1833)章広の死去により見広の長男・良広が10代藩主となるが天保10年(1839)17歳で死去、弟の昌広が11代藩主となるが病弱で、嘉永2年(1849)4歳年下の叔父・崇広に家督を譲り、その4年後に死去した。

 

 12代藩主となった松前崇広は江戸に出府して12代将軍・徳川家慶に拝謁し、北方警備のため新たな城の築城を命じられた。崇広は当時陣屋造りの福山館を拡張する形で、嘉永6年(1853)松前城を完成させた。

 

 しかし幕府は、安政元年(1854)対ロシア警備強化の観点から30余年ぶりに箱館奉行を設置し、さらに翌年には全蝦夷地を幕府直轄とし、崇広は出羽東根などに4万石を与えられ移された。。

 

 それまで松前藩が有していた蝦夷地での交易権を失い、幕府から毎年18,000両を下賜されたものの藩財政は窮乏する。

 

 西洋通である崇広は文久3年(1863)寺社奉行、元治元年(1864)老中格兼陸海軍総奉行、さらに同年老中に抜擢され、幕府から松前の8ヶ村の還付を受けている。

 

 慶応元年(1865)第二次長州征伐に14代将軍・徳川家茂に供奉して京都・大坂に赴き、陸軍兼海軍総裁に任じられた。

 

 幕府は英・米・仏・蘭と兵庫開港などの修好通商条約を締結していたが、朝廷から勅許が得られず履行できていなかった。4ヶ国は軍艦で兵庫沖に進出し、兵庫の早期開港を迫った。

 

 老中・阿部正外と崇広は無勅許での兵庫開港を決定、朝廷は2人の官位剥奪・改易の勅命を下し、家茂はやむなく2人を免職し、国許謹慎を命じた。

 

 慶応2年(1866)崇広は松前に戻ったが、同年熱病に罹り38歳で亡くなった。家督は昌広の長男である養子・徳広が家督を継ぎ、13代藩主となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 福山城

 

指定年月日 昭和10年6月7日
指定面積  72,674㎡
管理団体  松前町

 

 福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって嘉永2(1849)年松前家17世(松前藩13代藩主)崇廣に築城を命じ高崎藩の兵学者市川一学の設計により安政元(1854)年完成した。城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ三層櫓1、二層櫓3、城門16、砲台7、からなっている。
 構造形式は平城、わが国最北に位置し最後の遺構として史跡に指定されている。

 

文部省・松前町

 

 

重要文化財 福山城(松前城)本丸御門修理概要等

 

福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。
松前家5世慶広が、天正17(1589)年徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5年(1600)年福山の地で築城に着手し、同11(1606)年完成した。
蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永3(1850)年幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張りにより、直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)年完成をみた。
その後十数年を経ずして、明治維新の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8(1875)年には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら3棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し指定を解除された。
同25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。
本丸御門は昭和24年屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が摩耗し雨漏りが生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため屋根葺替部分修理を実施した。実施に当たっては松前町の直轄工事とし、設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。

 

 

 

 

松前城