蝦夷 戸切地陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①表御門

②表御門と馬隠し

イメージ 3③裏御門と馬隠し

イメージ 4④砲台内部

イメージ 5⑤砲台

イメージ 6⑥案内板絵図

 

訪問日:2018年11月

 

所在地:北海道北斗市

 

 松前藩が五稜郭(安政4年築造開始、元治元年竣工)に先立つ安政2年(1855)に築いた四稜郭で、東側にのみ亀首状の砲台を設け、6つの砲座がある。

 

 もっと小さな陣屋だと思っていたが郭内面積は約23,400㎡あり、想像以上に大きかった(函館の四稜郭は郭内面積約2,300㎡、五稜郭は郭内約120,000㎡)

 

 松前崇效(たかのり・勘解由)は松前藩家老・蠣崎広伴の次男として生まれた。『夷酋列像』(クナシリ・メシリの戦いで松前藩に協力したアイヌの功労者12名を描いた連作肖像画)を描いた蠣崎波響は祖父。

 

 筆頭家老である斎藤流松前家の松前広純に見出され、その孫娘を娶って養嗣子となり、天保14年(1843)広純が11代藩主・松前昌広に蟄居処分を受け家督を継いだ。

 

 嘉永2年(1849)12代藩主・松前崇広の就任とともに広純は筆頭家老に復帰、崇效は奥用人に登用され、嘉永5年(1852)広純死去の翌年に家老格に昇進する。

 

 嘉永7年(1854)日米和親条約を結んだマシュー・ペリーが箱館に視察のため来航、崇效がその主席応接掛を務める。この時、ペリー艦隊の写真師が撮影した崇效らの日本最古の銀板写真は重要文化財となっている。

 

 崇效はミシシッピ号を訪れペリーと会談、ペリーが条約にないことを要求しているとして抗議、幕府の命令がなければ交渉範囲は決定できないと答えて終了した。

 

 またペリーが箱館に上陸して行われた2回目の会談では、ペリーが遊歩区域の境界設定を要求したが、これも権限がないとして拒否した。

 

 これらの崇效の対応は「コンニャク問答」として幕閣に評価され、崇效は将軍・徳川家定や崇広から褒美を賜っている。

 

 安政3年(1856)実父・広伴とともに家老となり、崇広が文久3年(1863)寺社奉行、元治元年(1864)老中と幕閣の要職に就くと、筆頭家老として藩政を支えた。しかし佐幕的な崇效の執政に反発も増す。

 

 慶応元年(1865)崇広は兵庫開港問題のため罷免・蟄居となり翌年に死去、尊王派の昌広の子・徳広が家督を継ぐものの病弱のため辞意を示すと崇效らは崇広の子・敦千代(松前隆広)の擁立を画策する。

 

 これに反発した批判勢力が徳広を動かし、崇效は家老を解任され蟄居となり、徳広は藩主に留まった。

 

 江戸開城後の慶応4年(1868)閏4月に家老に再登用される。松前藩は新政府に誼を通じる一方で奥羽列藩同盟に属していたが、これに不満を強める鈴木織太郎(崇広の異父弟)・下国東七郎ら尊王派は正議隊を結成する。

 

 正議隊は箱館府知事・清水谷公考と密かに接触し、7月にクーデターを決行、徳広に佐幕派の一掃と勤王への転向を認めさせ、崇效は家老を罷免される。武器庫から武器を確保した崇效は城中への砲撃を企図するが思い留まった。

 

 8月、佐幕派の粛清を図る正議隊が崇效の屋敷を襲撃、これは撃退したものの、その2日後に切腹して果てた。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

 

 この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。
 構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており六つの砲座があります。
 郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払っています。
 この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。