蝦夷 徳山大神宮 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①拝殿

イメージ 2②境内

イメージ 3③ゴローウニン幽閉地碑

 

訪問日:2018年11月

 

所在地:北海道松前郡松前町

 

 文化4年(1807)文化露寇を機に幕府は松前藩から西蝦夷地も上知して陸奥国伊達郡梁川に転封させ、箱館奉行を松前奉行と改めて松前に移転した。

 

 松前奉行を司令官として津軽・南部・庄内・久保田の各藩から計3000名ほどの藩士を徴収し、蝦夷地沿岸要所の警護を強化させたが、同年冬、斜里に駐留していた津軽藩士72名が越冬中に病死するという痛ましい事件も起きた。

 

 文化8年(1811)千島列島南部の測量任務を命じられたロシア帝国の軍艦・ディアナ号の艦長のヴァシーリー・ゴローニンは国後島に上陸し、松前奉行配下の役人と面会の後、同行の7人とともに捕縛される。

 

 副艦長のリコルドはオホーツクに引き返し、海軍大臣にゴローニン救出の遠征隊派遣要請のためペテルブルクに向かうが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため却下となり、文化露寇の際にロシアに連行していた捕虜の中川五郎治を連れてオホーツクに戻る。

 

 ゴローニンを取り調べた松前奉行・荒尾成章は文化露寇のフヴォストフの襲撃はロシア政府の命令ではなく、ゴローニンもフヴォストフとは無関係との主張を受け入れて江戸にゴローニンらの釈放を上申したが、幕閣は釈放を許さなかった。

 

 松前で監禁されたゴローニンら6名は牢獄から武家屋敷に移された文化9年(1812)春、脱走を企てるが木ノ子村(現・上ノ国町)で捕まり、松前に護送され、徳山大神宮の奥のバッコ沢の牢獄に入れられた。

 

 リコルドは同年、五郎治や文化7年に遭難した歓喜丸の漂流民を伴い、ディアナ号ほか2隻で国後島に入り、国後陣屋でゴローニンと漂流民の交換を求めたが、松前奉行調役並・太田彦助はゴローニンは処刑したと偽って漂流民を受け取った。

 

 リコルドはこれを疑い、国後島沖で高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕、嘉兵衛ら6名をペトロパブロフスクへ連行し、宿舎で同居して親交を深める。嘉兵衛はフヴォストフの件を幕府に文書で謝罪すればゴローニンらは釈放されるだろうと説得する。

 

 カムチャッカ長官となっていたリコルドは自らの名義で謝罪文を書き上げ、文化10年(1813)夏、嘉兵衛らを連れて国後島に向かった。一方、幕府も嘉兵衛の拿捕以降は紛争拡大を懸念して、フヴォストフの行為が独断であることを証明すればゴローニンを釈放するとの方針に転じた。

 

 交渉の末に同年秋、ディアナ号は箱館に入港、イルクーツク県知事の釈明書を受け取った松前奉行はゴローニンを釈放、通商については拒絶した。任務を終えたディアナ号らはペトロパブロフスクへ向けて箱館を出港した。

 

 同年冬、リコルドとゴローニンはペテルブルクへ向け出発、翌年夏に到着して2人とも飛び級で海軍中佐に昇進した。ゴローニンは1816年『日本幽囚記』を執筆、欧州の広い範囲で読まれ、1825年には日本語訳の『遭厄日本記』として出版された。

 

 

以下、現地案内板より

 

北海道指定・有形文化財  徳山大神宮
本殿一棟・石造鳥居一基・棟札三十六枚

 

 徳山大神宮は、古くは伊勢堂と称し、唐津内浜(現唐津)にあった。1652年、松前家9世高廣により遷宮され、神明社と改称した。神璽を伊勢内宮、外宮から奉請して祀り、以後21年ごとの式年遷宮が行われていた。松前一の宮といわれ、士民の崇敬厚く、藩主の参勤ならびに帰藩の際には必ず参詣していたという。本殿は一間社神明造りで、切妻造りの屋根を付し、正面は片流れの向拝があり、組高欄のすのこ敷きで、屋根は棟持柱が貫通し、棟には堅魚木7本付し、柱頭には舟肘木を付ける等、中世の様式をそのまま伝えるものとして注目される。本殿には元禄7年(1694)以降の遷宮棟札が36枚残っており、同社の沿革を知るための貴重な史料である。

 

昭和46年3月5日指定 松前町教育委員会

 

 

ゴローウニン幽囚の地

 

 千島列島の水路調査と測量に従事していたロシアの提督ゴローウニンは、国後島に上陸したとき、6人の部下とともに南部藩の守備隊に捕らえられてしまった。これは、文化3・4年に起きたロシアの北辺襲撃に対する報復のためであった。
 ゴローウニンらは高田屋嘉兵衛との交換での文化8(1811)年8月から10年8月までの間、松前に幽囚されていた。この沢の奥に牢屋の跡がある。

 

松前ロータリークラブ