蝦夷 箱館南部藩元陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①標柱

イメージ 2②石垣

イメージ 3③石垣

イメージ 4④虎口

 

訪問日:2018年11月

 

所在地:北海道函館市

 

 幕府が松前藩から東蝦夷地を上知した寛政11年(1799)、南部藩は箱館の警護を命じられ、箱館谷地頭の北方に元陣屋を設置した。

 

 同年、ロシア帝国はロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言、露米会社(Russian-American Company)に植民地経営をさせた。

 

 露米会社の創設者で外交官のニコライ・レザノフはアラスカの維持に必要な食糧調達のため、文化元年(1804)アダム・ラクスマンに交付された信牌(入港許可証)を持って長崎に来航した。

 

 レザノフは仙台藩の漂流民・津太夫ら(結果として日本人初の世界一周を果たす)を送還する名目で、正式な遣日使節としてロシア皇帝・アレクサンドル1世の親書を携えて国交樹立を迫った。

 

 失脚した松平定信に代わって交渉を担当した老中・土井利厚は強気で、レザノフらは半年間も幽閉に近い状態で留め置かれた。文化2年(1805)津太夫らの身柄は引き渡されたが、結局レザノフは通商の拒絶を通告され長崎を去った。

 

 文化3年(1806)幕府は異国船打払令を廃止して薪水給与令を発布、しかしレザノフは皇帝に対し武力で開国を迫るべきと奏上(後に撤回)、レザノフの部下のニコライ・フヴォストフは樺太の松前藩居留地・久春古丹を襲撃した。

 

 さらに文化4年(1807)には択捉島の紗那幕府会所が襲われて津軽・南部藩兵を指揮していた幕吏らは紗那の放棄を決意、負傷のためその場に留まっていた南部藩砲術師・大村治五平は一時捕虜となり、番人小頭の中川五郎治はシベリアに連行された。

 

 これらの軍事行動(文化露寇)はロシア皇帝の許可を得ておらず、またレザノフが同年に病死したこともあり、文化5年(1808)皇帝は全軍に撤退を命令、フヴォストフは処罰された。

 

 

以下、現地案内板より

 

南部藩陣屋跡

 

 幕府が蝦夷地(北海道)を初めて直轄した時代(1799年~1821年)、幕府の命により南部藩が蝦夷地を警備するための陣屋跡で、敷地は、当初16,200㎡ほどであったが、19,800㎡増して36,000㎡以上となった。
 建物は極めて粗末で、ここには相当な人数が勤務し越冬していたが、病人がたくさん出た。(文化4年には342人勤務、うち150人越冬)
 後の幕領時代(1854年~1867年)にもここを陣屋として再建し、約300人が勤務していた。
明治元年戊辰戦が東北に及び国元を守護する為、同年、8月11日夜、イギリス人ブラキストンから雇入れた汽船に乗って箱館を引き揚げ、南部へ帰った。
 この碑は昭和29年7月30日、岩手県南部会が建立した。

 

函館市