改)播磨 英賀城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸跡碑

イメージ 2②土塁

 

訪問日:2000年7月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 三木通秋は天文3年(1534)英賀城主・三木通明の嫡男として生まれ、天文13年(1544)家督を相続して三木氏9代当主となった。

 

 重臣の三木清閑(別所氏一族か)の妻が黒田職隆の娘・香山妙春(黒田孝高の妹)という縁があった。

 

 永禄12年(1569)播磨守護・赤松氏当主の赤松義祐と15代将軍足利義昭や織田信長の支援を受けた龍野城主・宇野(赤松)政秀の対立では義祐に味方する。

 

 同年、政秀が姫路に侵攻すると、苦戦する黒田孝高の救援に駆けつけ、政秀を破る(土器山の戦い)。

 

 領内に英賀御坊があり自身も門徒であった通秋は、元亀元年(1570)に始まる石山合戦には本願寺に味方し、米3000俵を送って支援した。

 

 天正5年(1577)毛利氏と同盟して小早川水軍の支援を得て10倍の兵力で親織田派に転じた黒田孝高と戦ったが、孝高の奇襲により敗れた。

 

 天正6年(1578)同様に織田方となっていた三木城の別所長治や御着城の小寺政職が毛利方に転じたため、通秋は援軍や兵糧を送ってこれらを支援した。

 

 しかし天正8年(1580)三木城が落城すると英賀城も羽柴秀吉の猛攻を受けて落城し、通秋は一族とともに九州まで落ち延びた。

 

 天正10年(1582)秀吉に赦されて英賀に戻り、郷士頭となるも翌天正11年12月(1584年1月)50歳で亡くなった。

 

 

以下、現地案内板より

 

英賀城

 

岩繋城ともいう。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変都合の良い城であった。
 鎌倉時代には、とりでが、造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。しかし嘉吉の乱(1441年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇っていた。城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。また英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(49町・約900軒)として大いににぎわった。
 昭和13年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っている。また英賀御坊跡は昭和13年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。

 

平成6年12月 姫路市教育委員会