改)播磨 室山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①石垣?

イメージ 2②本丸

イメージ 3③遠景

イメージ 4④藻振鼻

イメージ 5⑤湊口御番所

 

訪問日:2000年7月

 

所在地:兵庫県たつの市(旧揖保郡御津町)

 

 赤松義村の生年は文明2年(1470)から明応3年(1494)まで諸説あるが、ここでは明応3年としておく。父は赤松七条家の七条政資で、幼名は道祖松丸といった。

 

 明応5年(1496)赤松氏中興の祖・赤松政則が42歳で急死、政則には当時4歳の庶子・村秀がいたが、浦上則宗・別所則治・小寺則職・宇野則貞ら家老らは政則の後室・めし(洞松院=細川勝元の娘)が産んだ小めしの婿として道祖松丸を迎えて家督を継がせた。

 

 道祖松丸改め赤松義村の後見人として浦上則宗が赤松家を牛耳ったが、明応8年(1499)同族の浦上村国らが赤松勝範を擁して挙兵、則宗は敗れて義村とともに則貞の父・宇野政秀の塩屋城に逃げ込んだ。

 

 さらに別所則治は洞松院を盟主として独自に活動し、赤松氏は三分された。則宗は村国に敗れ、政秀は上洛して幕府に掛け合い、将軍・足利義澄の停戦令を得て和睦にこぎ着けた。

 

 文亀2年(1502)則宗が亡くなると今度は義母・洞松院の後見を受ける。洞松院は異母弟・細川政元や別所則治の支援を受け、赤松家を牛耳った。

 

 永正4年(1507)細川政元が暗殺されると、後継を巡り養子の細川澄元と細川高国が争い、洞松院の意向により澄元につき、足利義澄の遺児・亀王丸(義晴)を預かった義村は永正8年(1511)船岡山合戦で大敗する。

 

 成長した義村は永正14年(1517)浦上村宗・小寺則職の2宿老と櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親の3奉行制を導入して権力の強化を目論むが、反発した村宗は永正15年(1518)居城の備前三石城に退去する。

 

 義村は永正16年(1519)には自ら出陣し三石城を攻めるが撃退され、永正17年(1520)には小寺則職を派遣するが浦上家臣・宇喜多能家の活躍もあり大敗する。

 

 ついには村宗の逆襲を受け、同年には嫡子・才松丸(後の赤松晴政)を引き渡して隠居のやむなきに至る。永正18年(1521)正月、亀王丸を擁して挙兵するが村宗に敗れる。

 

 村宗の和睦の持ち掛けに応じて和睦の席に赴くが、そこで捕縛されて室山城に幽閉される。同年(改元して大永元年)9月、村宗の刺客の手により暗殺された。

 

 享禄4年(1531)村宗は赤松晴政の裏切りによる大物崩れで討死、跡を継いだ浦上政宗も永禄7年(1564)晴政の娘婿・赤松政秀の奇襲を受け、室山城に討死する。