相模 松岡山 東慶総持禅寺(東慶寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①山門

イメージ 2②参道

イメージ 3③鐘楼

イメージ 4④本堂

イメージ 5⑤茶室

イメージ 6⑥やぐら

 

訪問日:2017年11月

 

所在地:神奈川県鎌倉市相模東慶寺

 

 天秀尼は慶長14年(1609)豊臣秀頼の娘として生まれた。俗名や母の名前は伝わっていない。7歳になった慶長20年(1615)大坂夏の陣で父が自害し、兄・国松も処刑される。

 

 天秀尼は秀頼の未亡人となった千姫の養女として寺に入ることを条件に助命され、元和2年(1616)鎌倉尼五山第二位・東慶寺に入った。

 

 東慶寺は弘安8年(1285)鎌倉幕府8代執権・北条時宗の正室・覚山尼が開山で、当時の19世・瓊山法清尼は小弓公方足利義明の子・足利頼純の娘だった。

 

 これ以降東慶寺は幕府直轄の寺院となり、天秀尼は寛永11年(1634)以降に東慶寺20世となった。

 

 正保2年(1645)天秀尼は37歳の若さで亡くなった。元禄元年(1688)に伏見で亡くなった求厭という僧が臨終に際して秀頼の子であると告白しているが、真偽のほどは明らかでなく、豊臣秀吉の血筋は絶えた。

 

 

以下、現地案内板より

 

東慶寺

 

●宗派 臨済宗円覚寺派
●山号寺号 松岡山東慶総持禅寺
●建立 弘安8年(1285)
●開山 覚山志道尼
●開基 北条貞時

 

 鎌倉幕府の第8代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創、夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来、600年近く縁切りの寺法を引き継いできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていました。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。
 境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓があります。

 

鎌倉市