相模 金宝山 浄智寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①惣門

イメージ 2②鐘楼門

イメージ 3③境内

イメージ 4④やぐら群

イメージ 5⑤曇華殿

イメージ 6⑥書院

 

訪問日:2001年12月(⑥) 2017年11月(①~⑤)

 

所在地:神奈川県鎌倉市

 

 鎌倉幕府第10代執権・北条師時は建治元年(1275)、8代執権・北条時宗の同母弟・北条宗時の長男として生まれた。母は正室で7代執権・北条政村の娘だが名前は伝わっていない。

 

 弘安4年(1281)弘安の役勝利の直後に父が29歳で亡くなると伯父・時宗の猶子となるが、その時宗も弘安7年(1284)32歳で死去、師時より3歳年長の時宗嫡男・貞時が13歳で9代執権となる。

 

 弘安8年(1285)霜月騒動で貞時の外伯父・安達泰盛が粛清され、平頼綱が実権を掌握するが、その頼綱も正応6年(1293)鎌倉大地震の混乱に乗じて成長した貞時に誅殺された。

 

 同年(改元して永仁元年)、貞時は19歳となっていた師時を、正安2年(1300)には同じく従弟の北条宗方(時宗らの弟・宗頼の子)を抜擢して政権の安定を図った。

 

 ハレー彗星が飛来した正安3年(1301)貞時が出家して師時が執権となり、母方の伯父・北条時村が連署となってこれを補佐したが、実権は貞時が引き続き握っていた。

 

 嘉元元年(1304)貞時に3男・成寿丸が誕生、延慶2年(1309)元服して北条高時と名乗り、後に14代執権となる。一方、師時の正室は貞時の娘だが、年齢的に息子の時茂・貞規の母は別人であろう。

 

 嘉元3年(1305)貞時の命として時村が殺害されるという事件が起き、貞時はこれを宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した。師時と宗方の対立が背景にあったという。

 

 応長元年(1311)師時は37歳で死去、評定中のことだったという。その1か月後には貞時も死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

浄智寺

 

●宗派 臨済宗円覚寺派
●山号寺号 金宝山浄智寺
●建立 弘安四年(1281)
●開山 兀庵普寧、大休正念、南洲宏海
●開基 北条宗政、北条師時
●史跡名 国指定史跡浄智寺境内(昭和41年2月28日指定)

 

 鎌倉五山の第四位であり、豊かな緑におおわれた境内は、国の史跡に指定されています。総門の手前にある古い石橋のたもとには、鎌倉十井の一つである甘露ノ井があり、その先には、印象的な苔むした参道の階段と、上に鐘楼がある珍しい山門があります。
 仏殿には、室町時代に造られたという三世仏坐像(向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒)が安置されており、それぞれ過去・現在・未来を意味するといわれています。また、境内一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられています。
 国指定重要文化財に指定されている地蔵菩薩像や「西来庵修造勧進状」などは、鎌倉国宝館に預けられています。

 

鎌倉市

 

 

国指定史跡 浄智寺境内  昭和41年2月28日 指定

 

 鎌倉五山第四位、臨済宗円覚寺派、金寶山 浄智寺は、弘安4年(1281年)北条時頼の三男宗政が29歳で没後、間もなく宗政夫人と幼少の師時を開基にして、宗政の菩提を弔うため創建されました。
 中国、宋の名僧、兀庵普寧と大休正念、及び日本僧南洲宏海の三人が開山になています。これは、当初開山に招かれた宏海が、任重しと身をひき、師の大休正念を迎えて入仏供養をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧を開山としたためです。
 創建当初の伽藍は、外門、山門、行堂、仏殿、方丈、庫裏等を備え、塔頭は11院に及んだということです。
 永い間には、たたずまいも変化し、現在は、看門寮、山門、鐘楼門、仏殿、書院、方丈、隠寮、庫裏等の堂宇が柏槙や杉木立ちの中に点在しています。
 境内は、周囲を緑の山々にかこまれ、昔ながらの、広大な寺域を残しており、地理的環境と鎌倉五山の伽藍遺構を後世に伝えるため、国の史跡として保護されています。

 

平成9年3月31日 神奈川県教育委員会