相模 瑞鹿山 円覚寺② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝舎利殿

イメージ 2②方丈

イメージ 3③仏殿

イメージ 4④選仏場

イメージ 5⑤国宝洪鐘

イメージ 6⑥山門

 

訪問日:2017年11月

 

所在地:神奈川県鎌倉市

 

 無学祖元は嘉禄2年(1226)南宋の明州慶元府(現・中国浙江省寧波市)に生まれた。嘉禎3年(1237)兄の命で出家し、臨安(現・杭州)で学ぶ。

 

 天福2年(1234)には中国北半を支配していた女真族の金がモンゴルにより滅亡し、翌年には南宋にも攻め寄せたが、しばらくは一進一退であった。

 

 しかし文応元年(1260)に即位したクビライ・カーンは文永5年(1268)から5年にわたる襄陽・樊城の戦いで南宋の重要拠点・襄陽を陥落させる。

 

 元軍が日本に押し寄せた翌年の建治元年(1275)温州・能仁寺に避難していた無学祖元は元軍に包囲されるが、「臨刃偈」を唱えると元軍は黙って去って行ったという。

 

 建治2年(1276)首都・臨安が陥落、弘安2年(1279)崖山の戦いに敗れ、皇帝・衛王が入水して南宋は完全に滅亡した。

 

 同年、無学祖元は鎌倉幕府執権・北条時宗の招きに応じて来日、鎌倉・建長寺の住持となり、鎌倉武士らの帰依を受けて日本の臨済宗に大きな影響を与えた。

 

 弘安4年(1281)元軍の2度目の来襲(弘安の役)の一月前にこれを予知し、時宗に「莫煩悩」との書を与えた。

 

 弘安5年(1282)時宗は元寇の戦没者を日本・元軍分け隔てなく供養するための円覚寺を創建し、無学祖元を開山とした。

 

 弘安9年(1286)無学祖元は建長寺で示寂、享年61、仏光国師・円満常照国師の諡号が贈られた。

 

 

以下、現地案内板より

 

瑞鹿山 円覚寺

 

 円覚寺は1282年(弘安5年)鎌倉時代後期、北条時宗公が中国より無学祖元禅師を招いt元寇の戦で亡くなられた敵味方の諸霊位を供養する為に創建されました。
 当山は国宝舎利殿・国宝洪鐘をはじめ文化財指定の建造物を存し古都鎌倉時代の代表的な境地であり国際的にも親しまれる禅刹として今日に至りました。
当山は専門道場、居士林の土曜坐禅会・土日坐禅会・学生坐禅会、毎朝の暁天坐禅会・日曜説教・夏期講座等仏法に帰依する老若男女にさまざまな門を開き、多くの人材を輩出し関東禅会の中心を成しております。
「こころの寺」として多くの人々から親しまれることを祈願しています。

 

大本山 円覚寺 三宝会

 

 

舎利殿 国宝

 

 円覚寺の舎利殿には「佛牙舎利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。
 その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舎利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺・廃寺)の佛殿(鎌倉時代末~室町時代初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和4年に復元しました。
 内部正面に佛舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地蔵菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山 無学祖元禅師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。
 正月の三が日、五月の連休日と11月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、拝観を制限させて頂いております。

 

大本山 円覚寺 三宝会