但馬 朝倉城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①主郭櫓台

イメージ 2②眺望

イメージ 3③主郭虎口

イメージ 4④堀切

イメージ 5⑤土塁

イメージ 6⑥遠望

 

訪問日:2016年12月

 

所在地:兵庫県養父市

 

 朝倉氏は開化天皇の後裔と伝わる日下部氏の流れを汲み、平安時代末期の日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、朝倉氏を称したのが始まりで、八木城主・八木氏や竹田城主・太田垣氏も同族である。

 

 宗高は但馬守の平忠盛に仕え、その子・高清も平家に仕えたが、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、但馬に潜伏していたところを残党狩りにより捕えられて鎌倉に護送された。

 

 しかし、建久4年(1193)関東で誰も退治できなかった白猪を射殺す手柄をあげて、源頼朝の赦免を受けて三つ盛木瓜紋を賜り、但馬の本領を安堵され、但馬に戻った。

 

 但馬に戻った高清は同じく但馬に潜伏していた平盛嗣の追捕を命じられ、建久5年(1194)身分を偽り城崎郡気比荘の日下部道弘(気比道弘)の娘婿となっていたという盛嗣は捕縛されて鎌倉で斬首された。

 

 高清の長男・安高は八木氏を継ぎ、次男・信高が朝倉氏を継いで朝倉城を築いた。しかし、信高は承久の変で宮方に与して敗れ、安高の孫・高実が朝倉氏を相続し、こちらが嫡流となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

越前の大名朝倉氏発祥の地
養父市指定文化財 朝倉城跡  昭和43年7月31日指定
養父市指定文化財 宝篋印塔  昭和43年7月31日指定

 

 養父市八鹿町朝倉は福井市の一乗谷に城下町を作った大名朝倉氏の発祥の地です。孝徳天皇の皇子、表米親王を始まりとし、平安時代末期に地名を苗字として武家の朝倉氏が興りました。源頼朝の御家人となった朝倉高清を初代とし、一族から八木氏、宿南氏、奈佐氏などの多くの武将を輩出しました。
 朝倉城は集落の南西の丘陵上にあり、東西190m、南北110mの規模です。天正5年ごろに堀切や竪堀で改修し、守りを固めています。城主は朝倉大炊です。
 宝篋印塔はお経を納めた供養塔です。石材は凝灰岩で高さは230cm、塔身に月輪と金剛界四仏の梵字を刻んでいます。室町時代、15世紀ごろの造立です。
 この地は、トゲがなく風味と香りに優れた朝倉山椒の原産地です。慶長16年、生野奉行は駿府城の徳川家康に朝倉山椒を献上しています。朝倉の地名が様々な由緒を育み、歴史と伝統の重みを現在に伝えています。

 

平成26年9月 朝倉区・養父市教育委員会