紀伊 熊野本宮大社 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①御社殿

イメージ 2②御社殿

イメージ 3③拝殿と八咫烏ポスト

イメージ 4④神門

イメージ 5⑤八咫烏

イメージ 6⑥大斎原

 

訪問日:2010年12月

 

所在地:和歌山県田辺市

 

 熊野本宮大社はかつては熊野川の中州にあったが、明治22年(1889)の大洪水で倒壊し、上四社のみが現在地に再建され、中四社・下四社の社殿は再建されず、大斎原と呼ばれる旧社地に大鳥居と二基の石祠が建てられている。

 

 来年の大河ドラマは「女城主・直虎」だが、鎌倉時代にも女地頭がいた。

 

 源為義の10男・新宮十郎行家の同母姉は新宮別当家で16代熊野別当の長範の嫡男・行範に嫁ぎ、立田原の女房と呼ばれ、範誉・行快・範命・行遍・行詮・行増らの男子と数名の女子を生んだ。実名は伝わっていない。

 

 承安2年(1172)田辺別当家の18代別当・湛快に替わり、行範が19代別当に就任するが翌年に亡くなり、剃髪して鳥居禅尼と名乗った。

 

 承安4年(1174)行範の弟・範智が20代別当に補任され、湛快の次男で鳥居禅尼の娘婿である湛増が権別当に就任した。

 

 治承4年(1180)源行家は以仁王の令旨に応えて甥である禅尼の息子たち新宮・那智勢とともに挙兵、平家方である湛増の田辺・本宮勢と対立するが、やがて熊野別当家は禅尼の活躍もあったのか源氏方として纏まった。

 

 元暦元年(1186)21代別当に補任された湛増は翌年、源義経により平氏追討使に任ぜられ、熊野水軍200艘・2000兵を率いて壇ノ浦の戦いにも参戦し、源氏の勝利に貢献した。功により湛増は源頼朝から熊野別当知行の上総国畔蒜庄の地頭職を認められた。

 

 さらに禅尼には甥である頼朝から紀伊国佐野庄および湯橋、但馬国多々良岐庄などの地頭職を与えられ、幕府の御家人となった。そして承元4年(1210)養子(孫の一人か)に全ての地頭職を譲り、まもなく亡くなった。