播磨 唐船山台場 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①遠景

イメージ 2②遠景

 

訪問日:2004年9月

 

所在地:兵庫県赤穂市

 

 文政10年(1827)赤穂藩森家16代を継いでいた忠貫が12歳で早世した。改易を恐れた藩は10歳の弟・忠徳を身代わりに立て、表向きは同一人物として文政7年(1824)の父の死亡時に16代を継いだことにされ、忠貫は歴代藩主として数えられていない。

 

 若年の忠徳に代わり、分家・森主税家の家老・森可真が藩政を握り、緊縮財政政策を進めたが、天保の大飢饉で大きな被害を受けたこともあり天保9年(1838)失脚した。

 

 代わって森釆女家の家老・森三勝が実権を握り、5ヵ年計画を実行するが、嘉永2年(1849)借金が27万両まで膨れ上がり失脚した。

 

 続いて森続之丞家の家老・森可則と勘定奉行・鞍懸寅次郎が病弱の忠徳の嫡男・忠弘を名代として改革が行われるが、忠弘が急死してまたも頓挫し、可則らは可真により追放・蟄居させられ可真が実権を回復する。

 

 文久2年(1862)次男・忠典に家督を譲って隠居、同日、赤穂藩も台場築造の計画がまとまり、藩内の御崎・唐船山・丸山・松ヶ鼻4か所で築造が始まった。

 

 しかし、同年末、保守派の可真と村上真輔が攘夷派の下級藩士に暗殺され、可則が藩政を見るが、赤穂藩は尊皇派・佐幕派に分裂して混乱した。