東京 永田町 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①国会議事堂

イメージ 2②総理大臣官邸

イメージ 3③自由民主党本部

イメージ 4④最高裁判所

 

訪問日:2016年11月

 

所在地:東京都千代田区

 

 大正9年(1920)に着工された現在の国会議事堂は、大正12年(1923)の関東大震災や大正14年(1925)の仮議事堂の火災の影響などで建設は大幅に遅延した。

 

 完成間近となった昭和11年(1936)2月26日未明、陸軍皇道派の一部青年将校らが「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに1,483名の下士官兵を率いて一斉蜂起した。

 

 栗原中尉率いる約300は午前5時過ぎ、総理大臣官邸(現在の官邸は2002年に移行)を襲撃、応戦した警察官4名が圧倒的な兵力の前に殺害されるが、この間に内閣総理大臣・岡田啓介は女中部屋に隠れる。

 

 そして総理秘書官・松尾伝蔵が自ら兵の前に進み出て銃殺される。兵らは松尾を総理だと思い込み、これに乗じて官邸側は翌27日、弔問客を多数招いて兵らの監視のもと、変装させた総理大臣の脱出に成功する。

 

 同じ頃、中橋中尉率いる兵100が大蔵大臣・高橋是清私邸を襲撃、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺されて即死、警備の警察官1人が負傷した。

 

 その他、内大臣・齋藤實、教育総監・渡辺錠太郎がそれぞれ私邸を襲われ即死、侍従長海軍大将・鈴木貫太郎(後の42代内閣総理大臣)は複数の銃弾を撃ち込まれ、瀕死の重傷を負ったが一命は取り留めた。また前内大臣・牧野伸顕を守って警察官1人が殺害された。

 

 青年将校らは総理大臣官邸の他、警視庁・内務大臣官邸・陸軍省・参謀本部・陸軍大臣官邸・東京朝日新聞を占拠、軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。

 

 天皇はこれを拒否、29日早朝、意を汲んだ軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意して永田町を包囲、東京湾御台場沖では海軍の軍艦40隻が永田町に艦砲射撃の照準を合わせて投降を呼びかけた。

 

 叛乱軍も占拠した総理大臣官邸や新国会議事堂などに布陣して迎え撃つ構えを見せたが、やがて叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。

 

 栗原・中橋ら16名の将校たちと襲撃に加わった民間人1名が銃殺刑に処され、その後思想家の北一輝・西田税が首魁として死刑となった。

 

 岡田内閣は総辞職し、3月9日に廣田弘毅内閣が誕生し、5月29日思想犯保護観察法を成立させた。そして11月7日、新国会議事堂の竣工式を迎えた。

 

 現在の政権与党・自由民主党は昭和30年(1955)日本民主党と自由党が合同して結成された。最高裁判所は永田町ではないが国会議事堂の北向かいにあり、三権の一・司法権の最高機関である。