大阪 若宮商工稲荷神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①若宮商工稲荷神社

イメージ 2②三会頭像

イメージ 3③五代友厚像

 

訪問日:2016年11月

 

所在地:大阪市中央区

 

 若宮稲荷神社は天正11年(1583)羽柴秀吉が大坂城築城にあたり奉祀し、江戸時代にはこの地に西町奉行所が設けられ、庶民にも広く崇敬されたという。

 

 商工稲荷神社は大阪商工会議所初代会頭・五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して明治12年(1579)頃に奉祀し、昭和40年(1965)大阪商工会議所が堂島から現在地に移転するにあたり、その建設用地内にあった若宮稲荷神社の御神体と合祀され、新たに建立された。

 

 五代友厚は薩摩藩記録奉行兼琉球交易係・五代秀尭の次男として天保6年(1536年2月)鹿児島に生まれた。開国論者の立場をとり、安政3年(1856)長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。

 

 文久2年(1862)水夫に変装して幕府艦・千歳丸に乗船し上海に渡航、藩のために汽船購入の契約をする。この時、高杉晋作と出会っている。

 

 文久3年(1863)生麦事件をきっかけに発生した薩英戦争で3隻の藩船ごと寺島宗則とともに捕虜となり横浜に護送されるが、その後脱出して江戸に入った。

 

 慶応元年(1865)藩命により、寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国へ出発し、欧州各地を歴訪、ベルギー・ブリュッセルではモンブラン伯爵と貿易商社設立契約に調印したが、これはうまくいかなかった。

 

 慶応2年(1866)薩摩に帰国し、御小納戸奉行格に昇進、勝手方御用席外国掛に任ぜられ、薩摩藩の商事を一手に握り、グラバーと合弁で長崎小菅にドッグを開設するなど手腕を発揮した。

 

 明治元年(1868)明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事・大阪府権判事兼任として大阪に赴任、堺事件、イギリス公使・パークス襲撃事件などの外交処理や造幣寮の誘致に関わり、初代大阪税関長にも就任した。明治2年(1869)横浜に転勤直後に退官し下野する。

 

 その後は、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)・大阪商法会議所(現大阪商工会議所)・大阪商業講習所(現大阪市立大学)・共同運輸会社・大阪商船・阪堺鉄道(現南海電気鉄道)などを設立し、明治維新の変動の波を受け低迷した大阪経済の復活に力を尽くした。