甲斐 岩殿山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①遠望

イメージ 2②揚城戸

イメージ 3③乃木希典詩碑

イメージ 4④本丸の烽火台

イメージ 5⑤堀切と土橋

イメージ 6⑥眺望

 

訪問日:2016年11月

 

所在地:山梨県大月市

 

 甲斐国では守護・武田氏が戦国大名化したが、河内の穴山氏、郡内の小山田氏は武田氏の家臣団に組み込まれながらも独自の支配を展開していた。

 

 永正6年(1509)小山田越中守信有は武田信虎の侵攻を受け、翌永正7年(1510)武田氏への従属を条件に和睦、信虎の妹(娘とも)を正室に迎えた。

 

 以降、小山田氏は出羽守信有・弥三郎信有と3代続けて当主が同じ諱を継承したが、弥三郎が永禄8年(1565)に若くして病死し、弟・信茂が家督を継いだ。

 

 信茂は武田信玄に従って駿河今川氏・相模北条氏などとの戦いに参陣、さらに元亀3年(1572)には信玄は織田信長と断交して西上作戦を開始、信茂は先陣を務めたという。

 

 しかし、元亀4年(1573)西上途上で信玄は病没、4男の勝頼が家督を相続する。天正3年(1575)長篠の戦いで武田方は大敗、信茂は勝頼の身辺を警護して退却したといわれている。

 

 天正9年(1581)信長の甲斐侵攻を前に勝頼は新府城を放棄し、郡内の信茂のもとへ逃れることを決意する。嫡子・信勝は新府城籠城を、真田昌幸は上野岩櫃城への退避を主張していたという。

 

 しかしそのさなかに信茂は勝頼から離反、勝頼は田野において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、天目山で勝頼と妻・桂林院殿、嫡子・信勝らは自害し、武田氏宗家は滅亡した。

 

 織田・徳川勢により甲斐が平定されると信茂は嫡子を人質に差し出すため信長に拝謁しようとしたが、信長の嫡子・信忠から武田氏への不忠を咎められて、甲斐善光寺にて嫡男・老母・妻・娘とともに処刑された。享年は44、勝頼自害から13日後のことであった。

 

 

以下、現地案内板より

 

岩殿山

 

 岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。
10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧坊その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。
13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山名氏、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。
16世紀に至り戦国大名領国制が成立する中で、武田、小山田両氏の支配を受け岩殿山は、岩殿城として、武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。そして、1582年(天正10)武田、小山田の両氏が滅亡すると徳川氏により利用されたが、同氏の支配体制の確立された17世紀のはじめには廃城となった。
その後円通寺は、その塔頭である常楽、大坊の両院が法灯を伝えていたが、明治の初め神仏分離政策によりそのあとを断たれた。
現在東麓には、三重塔跡、常楽院ならびに大坊跡その他が、また山頂付近には空堀、本城、亀ヶ池その他の遺構が残され、これらは日本修験道史上、また日本城郭史上貴重な資料とされている。
1972年(昭和47)10月、山梨県は岩殿山を「歴史景観保全地区」として指定した。
平成7年には、山梨県の文化財に指定された。

 

 

岩殿城

 

 岩殿城は、急峻にしてけわしい断崖をめぐらし、攻めにくく守りやすい戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。
 そのうえ南方の桂川下流には相模、武蔵。西方の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山なみを一望におさめ、かつ烽火台網の拠点として、近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれている。現在この城跡には一番高く展望のきくところに本丸、その下に二の丸、三の丸、さらに蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸などの建物跡のほか空ホリ湟、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。
 また、断崖の下にある七社権現、新宮などの大洞窟が兵舎や出丸として用いられ、鬼岩から稚児落しへのルートは落城の道とされている。
 これら多数の遺構は戦国時代の城郭史を研究するうえで貴重なものである。