甲斐 定額山 善光寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本堂

イメージ 2②本堂

イメージ 3③庭園

イメージ 4④境内

イメージ 5⑤山門内側

イメージ 6⑥山門

 

訪問日:2016年11月

 

所在地:山梨県甲府市

 

 武田晴信は弘治3年(1557)信濃善光寺北西にある上杉方の葛山城を攻略し、付近一帯を勢力下に収めると、善光寺の焼失を恐れて翌永禄元年(1558)本尊・阿弥陀如来像やその他の寺宝を甲斐へ持ち帰った。

 

 同年、信濃善光寺の37世・鏡空上人が本願主となり、甲斐善光寺の造営が開始され、永禄8年(1565)ようやく本堂が完成して入仏供養が営まれた。

 

 天正10年(1582)織田信長による甲斐征伐により武田勝頼は滅亡する。この時、甲斐善光寺では小山田信茂や勝頼の弟・葛山信貞らの処刑が執行された。

 

 善光寺如来は信長嫡男・織田信忠により美濃岐阜城下に持ち帰られるが、同年の本能寺の変により信忠は討死、善光寺如来は弟・信雄により尾張清州城下に移転された。

 

 翌天正11年(1583)善光寺如来は徳川家康により三河国吉田・遠江国浜松を経て、一旦甲斐善光寺に戻された。

 

 豊臣秀吉の天下であった文禄5年(1596)慶長伏見地震により方広寺の大仏が倒壊、翌慶長2年(1597)秀吉の要請により大仏の代わりとして善光寺如来が京に持ち込まれ、大仏殿に安置される。

 

 しかし、慶長3年(1598)秀吉が病に倒れると、善光寺如来の祟りであると噂され、善光寺如来は秀吉の死の前日、四十数年ぶりに本来の信濃善光寺に戻された。

 

 

以下、現地案内板より

 

定額山浄智院善光寺由来

 

 定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が、永禄年中、川中島の合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、本尊阿弥陀如来その他、諸仏、寺宝、大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え、信濃善光寺開基本田善光公追葬の地、ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである。
 その後、江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け、浄土宗甲州触頭として、金堂、山門、三重塔、鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し、荘厳を極めるに至った。 
 ところが、宝暦4年2月、門前の農家の失火により類焼し、堂塔ことごとく烏有に帰してしまった。そこで、中興嶷誉 性誉両上人が再興勧進に奔走し、30有余年の歳月を費して、寛政8年8月金堂が落慶した。
 これが現在の伽藍で、昭和30年6月、金堂 山門共に重要文化財に指定され、同32年より5年間にわたり大修理が行なわれた。金堂は、日本有数の大建築として著名である。
 本尊は、建久6年、尾張の僧定尊が霊夢により造立した金銅善光寺式一光三尊阿弥陀如来像で、重要文化財の指定を受けている。このほか、文禄年間、甲斐国主浅野長政公が他寺より動座した、木造阿弥陀如来三尊像二組も。それぞれ重要文化財である。また、県指定文化財の、木造源頼朝像、木造釈迦涅槃像、当麻曼荼羅図、梵鐘など多数の寺宝を所蔵している。寺域には、文禄2年、朝鮮の役で戦病死した国主加藤光泰公の墓所などもある。
 当山は、創建以来時に盛衰はあたが、全国の深い尊信を集め、今日に至っている。