播磨 斑鳩寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①仁王門

イメージ 2②三重塔

イメージ 3③講堂

イメージ 4④講堂

イメージ 5⑤聖徳殿

イメージ 6⑥聖徳殿奥殿

 

訪問日:2016年1月

 

所在地:兵庫県揖保郡太子町

 

 推古天皇14年(606)聖徳太子が推古天皇から播磨国揖保郡に水田100町を賜わり、大和国斑鳩宮から移住して鵤荘(いかるがしょう)と命名し、一つの伽藍を建立したのが斑鳩寺の始まりと伝えられている。

 

 以来、鵤荘は法隆寺の荘園で、文治2年(1186)法隆寺から鵤荘の地頭に任ぜられた金子家忠が荘園の押領を企てたとの訴えがあり、後白河法皇が源頼朝に院宣を下してこれを止めさせたという記録が残る。

 

 鎌倉幕府に一時没収されたが、元応元年(1319)に返還され、法隆寺の一円支配が続いたが、延元元年(建武3・1336)新田義貞が白旗城の赤松則村を攻めるためにこの荘園を占拠したこともあった。

 

 天文10年(1541)赤松氏と山名氏の戦禍を受けて斑鳩寺は灰燼に帰した。後に赤松氏などにより復興されたが、法隆寺の支配は終わり、天台宗となった。

 

 大和国明日香村の橘寺(太子生誕地)と大阪府太子町の叡福寺(太子墓所)、そしてこの斑鳩寺はなぜか一直線上に並んでいるという。