播磨 北条陣屋(大信寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大信寺

 

訪問日:2016年10月

 

所在地:兵庫県加西市

 

 田安徳川家は8代将軍・徳川吉宗の次男・宗武を家祖とし、享保14年(1729)賄料3万俵を与えられて創設された。

 

 一橋家・清水家と並ぶ御三卿の一つとして、将軍家に後嗣を出す資格を有し、家格は御三家に次ぎ、延享3年(1746)からは蔵米支給から領地に切り替えられ、武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨に10万石の賄料領地を与えられた。

 

 これらの領地の支配は北条陣屋のような独自の代官所によって行われ、家老以下の家臣団も旗本など幕臣が出向する形をとっていた。

 

 御三卿は常時江戸城内にあり、領国経営や家政運営の必要がなく、藩と違って後継者がなくとも改易されることなく、いずれ徳川家の血筋の者を養子に入れればよかった。

 

 5代当主・田安慶頼は松平春嶽の異母弟であったが、南紀派として井伊直弼と提携し、安政5年(1858)14代将軍・徳川家茂の就任とともにその将軍後見職に就任した。

 

 直弼の死後、後見職を解任され、後任に一橋慶喜が選ばれ、功労を賞されて正二位に昇進したが、翌年に従二位に降格され、長男・寿千代(後に早世)に家督を譲った。

 

 慶応4年(1868)謹慎した慶喜に代わり徳川家をまとめ、朝廷との折衝にあたり、徳川宗家の家督は慶頼の3男・田安亀之助(徳川家達)が相続し、田安家は慶頼が再相続した。

 

 同年(明治元年)、田安藩を立藩したが、翌年には版籍奉還が認められて廃藩となった。しかし、知藩事には就任できず、明治3年(1870)家録3148石を支給された。