①境内(蹴鞠)
②神門
訪問日:2012年12月
所在地:京都市上京区
天平7年(735)天武天皇の皇子・舎人親王が60歳で亡くなったとき、その7男・大炊王は3歳だった。官位を受けることもなく、忘れられた存在であった。
天平勝宝8年(756)聖武上皇が崩御すると、その遺詔により未婚の娘・孝謙天皇の皇太子として新田部親王(天武天皇皇子)の子・道祖王が立太子された。
しかし、天平勝宝9年(757)道祖王は孝謙天皇の不興を受けて廃太子され、藤原仲麻呂(恵美押勝)の強い推挙により大炊王が立太子する。同年、橘奈良麻呂の乱の発覚により道祖王は拷問を受けて獄死する。
大炊王は仲麻呂の亡くなった長男・真従の未亡人・粟田諸姉を妻として仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂との結びつきを深めていく。
天平宝字2年(758)孝謙天皇から譲位を受けて大炊王は践祚したが、実権は仲麻呂が握り、天平堂宇4年(760)皇室外で初の太政大臣に任じた。
しかし、弓削道鏡を寵愛する孝謙上皇を仲麻呂の進言を受けた天皇が諫めると上皇は激怒、天皇・仲麻呂と上皇が対立するようになる。
天平宝字8年(764)藤原仲麻呂の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったが乱は失敗に終わり、後見人を失った天皇は上皇の軍により中宮院を包囲され淡路国に流された。
天皇は廃位され、上皇が重祚して称徳天皇となった。廃帝は厳しく監視され、天平神護元年(765)逃亡を図るが失敗して捕まり、翌日に亡くなった、享年33。
称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、淡路廃帝と呼ばれていたが、明治3年(1870)明治天皇により「淳仁天皇」と諡号が贈られた。
明治6年(1873)同様に配流先で崩御した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。白峯神宮は蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の屋敷の跡地に慶応4年(1868)に創建されたため、サッカーを始めとする球技全般の守護神とされている。