山城 瑞応山 大報恩寺(千本釈迦堂) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝釈迦堂

イメージ 2②山名氏清碑

イメージ 3③参道

 

訪問日:2012年12月

 

所在地:京都市上京区

 

 意外だが、京都の洛中は応仁の乱の戦火などにより、中世以前の建築は数少なく、大報恩寺の国宝釈迦堂は安貞元年(1227)の上棟で、洛中最古の現存建造物である。

 

 山名時氏は南朝方から北朝方に転じ、伯耆・丹波守護、嫡男・師義は丹後、次男・義理が美作、3男・氏冬が因幡と山名氏は5ヶ国の守護となった。
 
 応安4年(建徳2・1371)時氏が亡くなると師義が継ぐが5年後に死去し、次に5男・時義が惣領となった。

 

 4男・氏清は父から丹波を継ぎ、さらに和泉守護にも任ぜられたが、惣領になれなかったことが不満で時義と対立していた。

 

 康応元年(元中6・1389)に時義が亡くなり、その子・時煕が継いだ。山名氏の強大化を懸念した将軍・足利義満は氏清とその婿で師義の子・満幸に対し、時煕と満幸の兄・氏之の討伐を命じた。

 

 氏清はこれに従い時煕を追放、恩賞として時煕の但馬を手中にした。しかし、その後義満は突如豹変して時煕・氏幸を赦免し、逆に満幸を罰するとまで言い出した。

 

 満幸は氏清や義理・氏家(氏冬の子)とともに明徳2年(元中8・1391)挙兵して京都に攻め入るが、大内義弘や赤松義則ら幕府軍の反抗に遭い、氏清は討死した。(明徳の乱)

 

 義満は明徳の乱の戦没者を悼んで翌明徳3年(1392)応永8年(1401)経王堂を建立した。また、江戸時代前期の山名矩豊が経王堂の前に「山名陸奥太守氏清之碑」を建立した。