陸奥 山前遺跡 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①山前遺跡

イメージ 2②山前遺跡

イメージ 3③遺跡図

 

訪問日:1999年3月

 

所在地:宮城県遠田郡美里町(旧小牛田町)

 

 縄文時代の集落が古墳時代に大規模な溝(堀)を持つ周濠集落に発展した。付近には京銭塚古墳(前方後方墳)・保土塚古墳(円墳)・蜂谷森古墳(円墳)があり、どのような人物が暮らしていたのか興味が尽きない。

 

 奈良時代に築城された伊治城から発掘されたものと同様の土器が山前遺跡からも発掘されており、陸奥鎮守府に協力した俘囚の指導者が居住していた可能性もあるかもしれない。

 

 その後もこの地はその時代時代の人々により開発され、中世にはすぐ近くにある彫堂城の居館のひとつとして利用され続けたものと思われる。

 

 
以下、現地案内板より

 

山前遺跡

 

山前遺跡に人びとが住みはじめたのは、今から約7千年前、縄文時代早期と呼ばれる時代からです。
遺跡の大きさは南北141m、東西234mで約3万5千㎡の広い範囲からなっています。
昭和51年(1976年)に国の史跡に指定され、中央部の約1万2千㎡が現況のまま史跡として保存されることになりました。
昭和49年(1974年)昭和50年(1975年)に行われた発掘調査の結果、縄文時代早期、中期、古墳時代前期、後期、奈良時代、平安時代、中世にわたる複合遺跡であることがわかりました。
縄文時代についてみると、早期末の貝塚、前期後半、中期、後期の遺物包含層、また中期の竪穴住居跡も発見されています。住居跡は直径が5mほどでほぼ丸い形をしています。
古墳時代についてみると、20数軒の竪穴住居跡が確かめられています。またこの住居跡をかこむように幅3~6m、深さ1~4mもある大規模な溝があることもわかりました。これは県内では初めて発見された遺構です。
奈良平安時代で竪穴住居跡が3軒確認されています。
中世では板碑が数枚集中して出土しています。特にこの中で注目されるのは、文字の部分に金泥をほどこしたものがあり、ここが有力な中世領主の拠点であったことを物語っています。
このように本遺跡は長期連続して人びとが住んでいたので、当地方における各時代の生活や環境の移り変わりを知る上で大変貴重なものです。