陸奥 彫堂城(彫堂七舘) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①主郭

イメージ 2②主郭

イメージ 3③堀切と木橋

イメージ 4④堀切と木橋

 

訪問日:1999年3月

 

所在地:宮城県遠田郡美里町(旧小牛田町)

 

 陸奥鎮守府将軍・北畠顕家ら奥羽の南朝勢力にに対抗するため、建武2年(1335)足利尊氏は15歳の斯波家長を奥州総大将(兼任)に任命するが、建武4年(延元2・1338)鎌倉で顕家と戦い敗死してしまう。

 

 同年、石塔義房が専任の奥州総大将に任ぜられ、貞和元年(興国6・1345)までに北畠顕信ら南朝方を圧倒したが、独自支配の風潮が高まったとして尊氏に解任された。

 

 奥州総大将は廃止され、替って畠山国氏と吉良貞家の2名が奥州管領に任ぜられたが、観応2年(正平6・1351)観応の擾乱が奥州まで飛び火し、直義派の貞家が尊氏派の国氏を岩切城に討ち取った。

 

 これに乗じて南朝の顕信が多賀城を奪うが、貞家はこれをすぐに奪還したものの、文和2年(正平8・1353)に亡くなり、子の満家が管領職を世襲した。

 

 一方、国氏の子・国詮は二本松に逃れ、これも奥州管領を名乗り、さらに義房の子・義憲も奥州管領を自称、さらに文和3年(正平9・1354)斯波家兼が奥州管領に任ぜられ中新田城を本拠とし、四管領が並立する事態となる。

 

 これに貞治6年(正平22・1367)足利義詮により奥州総大将に抜擢された石橋棟義が加わり、抗争を繰り広げた結果、次第に斯波家兼が優位となっていった。

 

 各管領は有力国人の支持を取り付けるため、郡地頭に決裁権を与えたため、有力国人たちは「分郡」と呼ばれる支配領域を持つに至り、戦国大名へと発展していった。

 

 

以下、現地案内板より

 

蜂谷森の歴史  中世の城郭「七舘八沢」

 

 彫堂地域のこの丘陵一帯は、古くから「七館八沢」とよばれている。西から長舘、大舘、小舘、陣舘、狼之介舘、笹舘、蜂谷森の七舘、これらをめぐって、八沢つまり中世特有の空壕の跡が随所にのこっている。鶴頭城、志賀殿、皎善寺周辺、山内屋敷などとならびしかも群を抜いて堅固な中世の城跡である。七舘のうち小舘、陣舘、狼之介舘、蜂谷森が公園化された。
 「七舘八沢」が中世のどの直に築城されたかははっきりしない。しかし、「余目記録」には、奥州四探題の時期、吉良・畠山両氏の抗争に際して吉良方についた大崎氏が、色麻川(鳴瀬川)をへだてて蜂森に陣どり、長世保(松山町)に拠った畠山氏と遠矢の合戦をしたと記されている。蜂森は蜂谷森と考えてよい。
 斯波家兼が奥州探題として下向し、大崎氏を名のってこの地方を支配したのは、南北朝内乱期(1334-92)の50年代である。小牛田は大崎領の東端に位置し、鳴瀬川対岸に進出した葛西・伊達氏らに対する最前線であった。
 こうみてくると、「七舘八沢」は内乱後期に、大崎氏によって築城された可能性が濃い。また、蜂谷森を主城とする大規模な布陣は、大崎氏のような実力者でなければなし得なかったのである。彼はここに有力家臣を配置して、大崎領東部の守りをかためたのであろう。
 延宝年間幕府に提出された「仙台領古城書上」には小牛田の彫堂城がみえる。口碑にはここに蜂谷筑前守なる有力武士が居城したともある。彫堂城はおそらく蜂谷森の別名であろうし、蜂谷森筑前守は大崎氏につらなる中世末期の城主であったかもしれない。