伊勢 桑名城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①九華公園・吉之堀

イメージ 2②九華公園・吉之堀

イメージ 3③絵図

 
訪問日:1990年5月

 

所在地:三重県桑名市

 

 安政6年(1859)桑名藩主・松平定猷が26歳の若さで急死した。定猷にはともに3歳の正室との娘・初姫と庶子の万之助(後の定教)がいたが、尾張藩の支藩・高須藩から13歳の松平定敬を迎え、初姫(初子)の婿養子とした。

 

 文久3年(1863)将軍・徳川家茂の上洛に際し、京都警護のため上洛し、翌元治元年(1864)16歳にして京都所司代に任命され、京都守護職の実兄・松平容保や朝廷から任命された禁裏御守衛総督・一橋慶喜とともに一会桑政権とも呼称される半ば幕府から独立した勢力を形成する。

 

 禁門の変や水戸天狗党の乱で活躍したが、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いに敗れ、慶喜に従って江戸の霊巌寺で謹慎した。

 

 朝敵とされた桑名藩の国元では家老たちが定教を擁立して新政府に降伏し、桑名城は無血開城し、尾張藩の管轄下に置かれた。

 

 徹底抗戦派と見られていた定敬は桑名に戻れず、藩士220名とともに桑名藩の飛び地である越後柏崎に渡り謹慎したが、新政府は定敬を赦さず、会津藩の恭順も拒否されたため、柏崎の桑名藩は主戦論が優勢となる。

 

 定敬は会津に渡り容保と再会、その後仙台から榎本武揚の艦隊で箱館に渡った。明治2年(1869)箱館戦争終結前にアメリカ船で上海に渡るが経済的困窮から海外逃亡を断念し、同年横浜に戻って降伏した。

 

 桑名藩は11万石から6万石に減封の上存続を許され、定教が家督を継ぎ知藩事となったが、明治4年(1871)廃藩置県により免官された。

 

 明治5年(1872)に赦免された定敬は26歳となっており、同年16歳の許嫁・初子と結婚する。その後、定敬は定教とともに横浜市学校、ブラウン塾で英語を学び、明治7年(1874)ともに渡米した。

 

 明治10年(1877)の西南戦争では立場が逆転し、定敬が旧桑名藩士を率いて遠征した。明治11年(1878)に帰国した定教はその後、外務省の書記官としてイタリア公使館で働いた。