山城 五辻殿 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①標柱

 

訪問日:2012年12月

 

所在地:京都市上京区

 

 寿永2年(1183)平家が安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。京都に残った祖父の後白河法皇は政務の停滞を解消するため、神器のないまま天皇の異母弟である4歳の尊成親王に践祚させる。

 

 文治元年(1185)安徳天皇は壇ノ浦で平家と運命をともにするが、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに発見することはできなかった。

 

 建久3年(1192)法皇が亡くなり、関白・九条兼実が朝廷の実権を握り、源頼朝の征夷大将軍就任を実現するが、建久7年(1196)の政変により兼実は関白を罷免され、土御門通親が実権を握る。

 

 建久9年(1198)尊成天皇は19歳で4歳の為仁親王(土御門天皇)に譲位して院政を敷く。正治元年(1199)頼朝が急死、建仁2年(1202)には兼実が出家し、通親も急死すると上皇が名実ともに治天の君として君臨する。この頃、五辻殿の造営が始まる。

 

 上皇の院政は土御門・順徳・仲恭の3代、23年間にわたり続くが、42歳となった承久3年(1221)承久の乱を起こして完敗し破綻した。

 

 上皇は隠岐に流され、そのまま配所で延応元年(1239)60歳で崩御した。当初「顕徳院」と諡号されたが、後に「後鳥羽院」と改められた。

 

中世屈指の歌人といわれ、小倉百人一首では

 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

という歌が選ばれている。

 

 

以下、現地案内板より

 

五辻殿跡

 

 五辻殿は、後鳥羽上皇(1180~1239)の院御所(退位した天皇の住まい)として、元久元年(1204)から使用された邸宅であり、「三長記」(藤原長兼の日記)には「五辻南・大宮西・櫛笥末」に位置したとある。
 造営者は上皇の生母 七条院殖子(1157~1228)の弟 坊門信清(1159~1216)であり、建仁3年(1203)に播磨国を賜わった際に造営した。
 上皇の院御所としては、数十箇所知られているが、高陽院と二条殿が恒常的に使用されており、五辻殿の使用は短期間であったようで、元久3年(1206)以降は不詳である。
 この石標はその跡を示すものであり、大正5年に五辻殿推定地(五辻通浄福寺西入南側)に建てられたが、のちに嘉楽中学校を経て、平成11年に現在地に移された。

 

平成21年9月 京都市