播磨 尾上構居 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①長田寺

イメージ 2②長田寺

イメージ 3③寺を囲む水路

イメージ 4④寺を囲む水路

 

訪問日:2012年5月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 天文7年(1538)加古郡尾上を領していた尾上則虎は、尼子詮久(のち晴久)の播磨侵攻により赤松晴政とともに和泉国に逃れ、岸と改称した。

 

 天文9年(1540)に詮久は播磨から撤退しているが、尾上構居には小松原氏一族の加古幸宗が入り、別所氏に仕えて天文11年(1542)に亡くなっている。

 

 天正6年(1578)別所氏に与した加古瀧十郎・丹波守が羽柴秀吉と戦ったが、別所氏は秀吉に敗れて滅亡して加古氏も没落したようだ。

 

 そして黒田官兵衛に仕えていた則虎の嫡男・可親は尾上に復帰して尾上氏に復したと思われる。可親の弟・武則は官兵衛の妹・虎(妙円)を妻とし、黒田の姓を与えられている。

 

 可親は官兵衛や黒田長政に従って多くの武功を挙げ、筑前福岡藩で1,700石を賜り、子孫は明治維新まで存続している。

 

 福岡藩で伝えられた陽流砲術は、黒田氏家臣・高野安長が流祖で、その後老林家により世襲されたが、明治以降は老林家の親類である尾上家に引き継がれ、現在無形文化財に指定されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

尾上構居址

 

播磨鑑(宝暦12年)に 
 長田庄 領主は尾上丹波守 別所の幕下とあり、
播諸城交替連綿記には
 尾上構主、加古瀧十郎盈斎赤松氏範末孫なり居す、
 △居尾上丹波守三木落亡武功あり
と記録されている。

 

昭和59年3月 加古川市教育委員会