大和 国軸山 金峯山寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①蔵王堂

イメージ 2②蔵王堂

イメージ 3③四本桜

イメージ 4④銅灯篭

イメージ 5⑤威徳天満宮

イメージ 6⑥仁王門

 

訪問日:2016年8月

 

所在地:奈良県吉野郡吉野町

 

 弘和3年(永徳3・1383)大和栄山寺で即位した後亀山天皇であったが、南朝の衰退は著しく、元中9年(明徳3・1392)和泉・紀伊守護の大内義弘と南朝の吉田宗房らが接触して和約の下交渉が始まる。

 

 10月、3代将軍・足利義満から両朝講和条件が提示され、天皇はついにこれを承諾して明徳の和約が成立した。南朝君臣は三種の神器を奉じて吉野を発ち、閏10月に京都大覚寺に入る。

 

 神器は北朝の手に渡り、元中の元号は廃止されて北朝元号の明徳に統一され、ここに南北朝時代は終焉を迎えた。明徳5年(1394)天龍寺で義満と面会し、太上天皇の尊号を贈られる。

 

 応永4年(1397)には出家して隠遁生活に入ったが、応永17年(1410)息子の小倉宮恒敦とともに嵯峨を出奔して吉野に逃亡した。

 

 和約では恒敦を北朝・後小松天皇の皇太子とする約束であったが、後小松天皇にこれを反故とする動きがあったため、これを牽制する目的があったといわれている。

 

 応永19年(1412)懸念が現実となり、後小松天皇の皇子・称光天皇が践祚、これに反発した伊勢国司・北畠満雅が蜂起するが、幕府軍の討伐を受けて和睦した。

 

 後亀山院は所領回復を条件に応永23年(1416)幕府の要請に応じて大覚寺に還御したが、恒敦はそのまま吉野に留まり抵抗を続けた。

 

 応永31年(1424)後亀山院は大覚寺で崩御、75歳とも78歳ともいわれている。その後も小倉宮家を擁する勢力が各地で蜂起している。

 

 

以下、パンフレットより

 

金峯山と金峯山寺

 

金峯山(きんぷせん)とは、奈良県の吉野山から山上ヶ岳(大峯山)に至る一帯を指し、古く飛鳥時代から聖地として知られていました。白鳳年間(7世紀後半)、修験道を始めた役行者(えんのぎょうじゃ)は、この金峯山で修行され、山上ヶ岳において、人々を迷いや苦しみから救い、悟りの世界に導くために金剛蔵王権現を祈り出されます。そして、そのお姿を山桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建ててお祀りされました。これが山上山下の蔵王堂の起こりであり、金峯山寺の始まりです。山号は国軸山
。日本国の中心軸に位置する寺という意味です。以来今日まで、金峯山は、修験道の中心的な道場として、多くの修行者、宗教者が宗派を超えて入山修行しています。まさに、自然を敬い、神様も、仏様も大切にする日本の心の原点が残っており、その精神文化は、今もしっかりと生き続けています。また、役行者が蔵王権現のお姿を山桜の木に彫刻したことから、吉野山では山桜がご神木として保護、献木され、日本一の桜の名所となりました。

 

現在の金峯山寺は、金峯山修験本宗の総本山であり、多くの僧侶、修験者が日々、厳しい修行を続けています。吉野山蔵王堂から山上ヶ岳の山上蔵王堂(現大峯山寺)までの間、毎日休むことなく歩き、百日にわたって礼拝する「金峯山百日回峯行」、さらには山上ヶ岳の開山期間(5月3日~9月22日)を8年、一千日を懸ける大行「金峯山千日回峯行」もこれまでに2名が成満しており、この金峯山寺で、役行者の教えを正しく受け継いでいます。金峯山寺を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」は、その「文化的景観」の価値が認められ、2004年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
 

 
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