大和 吉野行宮 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①妙法殿・標柱

イメージ 2②妙法殿遠景

 

訪問日:2016年8月

 

所在地:奈良県吉野郡吉野町

 

 延元元年(建武3・1336)足利尊氏により幽閉されていた後醍醐天皇は京都を脱出し、穴太(賀名生)を経て吉野吉水院に入ったが、手狭だったため数日後には金峯山寺の塔頭・実城寺に移り、ここを行宮として金輪王寺と改名した。

 

 南朝2代目の後村上天皇は北朝との戦況に伴い、吉野から賀名生・男山八幡・金剛寺・観心寺・住吉と行宮を移していったが、京都に復帰することなく正平23年(応安元・1368)住吉で崩御した。

 

 3代目として26歳の長慶天皇が践祚するが、直後に楠木正儀が北朝に降ったこともあり、同年暮れには吉野に後退し、正平24年(応安2・1369)4月には河内金剛寺に移った。

 

 しかし、文中2年(応安6・1373)正儀の先導による北朝軍の総攻撃を受け、四条隆俊が天皇を守って憤死するなど70人余りが討死して吉野に撤退した。

 

 天授5年(康暦元・1379)には大和栄山寺に移り、弘和元年(永徳元・1381)宗良親王が撰述した「新葉和歌集」を准勅撰和歌集とすることを命じている。

 

 弘和2年(永徳2・1382)北朝に降っていた正儀が南朝に帰参、弘和3年(永徳3・1383)頃に弟の後亀山天皇に譲位した。

 

 長慶天皇の在位期間中は北朝との和睦交渉が途絶しており、北朝に対して強硬だったと思われ、和平派の正儀と対立していたと考えられる。

 

 元中9年(明徳3・1392)南北朝合一が成立するが、長慶院が後亀山天皇に伴い京都に入った形跡はない。応永元年(1394)崩御との記録が残るが、終焉の地がどこであるかも今だわかっていない。

 

 当時の南朝の記録の乏しさから、明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した後も在位の認定はなされず、研究の結果、大正15年(1926)になってようやくその在位が公認された。

 

 

以下、パンフレットより

 

南朝妙法殿

 

後醍醐天皇の行宮となった実城寺跡。南朝四天皇並びに忠臣の霊をお祀りしています。本尊釈迦如来像は重要文化財に指定。