①遠景
②登山口
訪問日:2004年12月
所在地:兵庫県赤穂市
登山口までは確認したが、まだ攻略には至っていない。
尼子将監義久が永禄初年にここに築城して城代を務め、永禄6年(1563)毛利氏に攻められて落城したといい、将監の墓もここに存在している。
尼子氏が播磨に侵攻したのは天文7年(1538)のことで、尼子詮久(のち晴久)が龍野城を攻略し、守護・赤松晴政を追い、三木城主・別所就治を降伏させた。
しかし天文9年(1540)毛利元就の安芸吉田郡山城攻めに失敗した影響で、詮久は播磨から撤退している。
尼子義久は永禄3年(1560)父・晴久の急死により21歳で家督を継いでおり、永禄6年には毛利氏により本拠の出雲への侵攻を受けており、播磨にはいなかったはずである。
伝承が正しいとすれば、尼子氏は永禄初年まで播磨赤穂郡あたりにわずかながら所領を確保しており、若い義久が城代を務めていたが、父の死により出雲に帰って家督を継ぎ、尼子山城には別人が入ったと考えられる。
そして永禄6年、尼子氏の播磨における橋頭堡・尼子山城は孤立して毛利軍により攻め落とされて落城し、城代・何某は討死してここに葬られた。
以下、標柱より
海抜259mの山上には、東西25間南北40間の本丸跡のほか、外郭に屋敷跡の遺構が残っている。