和泉 新堀城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①今池

 

訪問日:2011年12月

 

所在地:堺市北区

 

 永禄8年(1565)永禄の変で将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害されると、河内・紀伊守護の畠山高政は弟・政頼(後の秋高)に家督を譲り、義輝実弟・一条院覚慶(後の足利義昭)擁立に奔走した。

 

 永禄11年(1568)足利義昭を奉じた織田信長が上洛し、三人衆らを放逐すると、秋高は河内国の南半分を安堵され高屋城に復帰した。北半分は三好義継が領し、若江城に入った。

 

 やがて義昭と信長は対立し、畠山家中は義昭派と信長派に分裂し、元亀4年(1573)信長派の秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に殺害され、信教が畠山氏の実権を掌握する。

 

 しかし、直後に義昭は信長に追放され、朝倉義景・浅井長政や三好義継も滅ぼされ、義昭派は窮地に追い込まれた。翌天正2年(1574)信長は高屋城追討の兵を挙げるが、この時は信教や客将の三好康長がこれを撃退している。

 

 天正3年(1575)4月、再び摂津・河内に挙兵した信長は天王寺を本陣として石山本願寺と対峙しつつ、本願寺と高屋城の中間に位置し、両者を支援していた新堀城に向け進軍する。

 

 新堀城には十河一行や香西長信があったが、信長勢の総攻撃を受け、一行は討死、長信も捕らえられて斬首された。

 

 新堀城落城を知った高屋城の康長は信長に降伏して赦され、信教は城を出た後も本願寺とともに信長に抵抗を続けたというが、その最期は明らかでない。