越前 鯖江陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①家老植田家長屋門

イメージ 2②萬慶寺

イメージ 3③萬慶寺

 

訪問日:2009年8月

 

所在地:福井県鯖江市

 

 鯖江藩5万石の7代藩主・間部詮勝は文化11年(1814)11歳で藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近となり、文政9年(1826)奏者番をはじめ、寺社奉行・大坂城代・京都所司代などを歴任した。

 

 天保11年(1840)、西丸(大御所家斉)付老中に就任、翌天保12年(1841)家斉の死去にともない将軍世子・徳川家祥(後の家定)付に異動する。

 

 老中就任とともに城主待遇となり、築城を許され幕府から5千両を下賜されるが、天保の大飢饉の影響もあり、これを断念している。

 

 天保の改革を推し進める老中首座・水野忠邦に疎まれたとされるが、忠邦が改革に失敗して天保14年(1843)閏9月13日に罷免され、失脚した8日後の21日に病気を理由に老中を辞職している。

 

 安政5年(1858)大老・井伊直弼のもとで15年ぶりに老中に復帰、財政と外交を兼務し、上洛して朝廷より日米修好通商条約調印の勅許を得た。

 

 また京都所司代・酒井忠義とともに一橋派、尊皇攘夷派の弾圧(安政の大獄)に奔走し、「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」と恐れられ、吉田松陰は間部要撃策を提言し、その暗殺を企てた。

 

 しかし、翌安政6年(1859)江戸に戻ると直弼と幕政の主導権を巡って対立し、敗れて免職となった。安政7年(1860)桜田門外の変が勃発する。

 

 その結果、一橋慶喜らが復権すると、老中在任中の失政を咎められ、文久2年(1862)隠居謹慎とともに1万石を減封され、慶応元年(1865)まで謹慎生活を送った。

 

 また明治元年(1868)には、明治新政府から会津藩への内通を疑われ、国許で謹慎を命じられ、2ヶ月間謹慎した。明治2年(1869)になって東京及び京都への立ち入りを許可されている。

 

 明治17年(1884)81歳で没。

 

 

以下、現地案内板より

 

鯖江市指定文化財 鯖江藩家老植田家長屋門

 

指定年月日 昭和49年9月24日  種別 有形文化財(建造物)
建築年代 江戸時代中期
概要
 鯖江藩の家老職を代々勤めた植田家の表門である。「長屋門」とは、敷地の周囲をめぐらす長屋の一部を門としたことに由来する。現在は、桁行13.5間、梁間2間の平屋建瓦葺建物となっている。
 武家の建物には細かな格付けがあり、この門は白漆喰壁に黒塗りの柱や下見板、4つの出格子をもつなど、鯖江藩5万石の家老職にふさわしい規模・形式を有している。
 文献によると、享保16年(1731)頃の建築と推定され、当初は茅葺で桁行10間、梁間2間の長屋と、2間四方の厩があり、その間に木の門を設ける構造であった。その後改造を重ね、現在のような外観へと変化した。
 この門は、旧鯖江藩時代の面影を残す数少ない建造物として、貴重な資料である。

 

鯖江市教育委員会