和泉 龍臥山 久米田寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①金堂と多宝塔

イメージ 2②大門

イメージ 3③久米田池

イメージ 4④境内図

 

訪問日:2011年5月

 

所在地:大阪府岸和田市

 

 永禄4年(1561)3月、三好長慶の4弟で和泉岸和田城にあった十河一存が30歳の若さで病死し、前年に長慶に敗れ紀州に逼塞していた河内守護・畠山高政はこれを好機と見て打倒長慶を旗印に立ち上がる。

 

 同年5月、将軍・足利義輝の勧めにより長慶は近江坂本にあった前管領・細川晴元と和睦し、晴元は8年ぶりに入京し、義輝と対面した。

 

 しかし、その後長慶は晴元とその長男・昭元を普門寺城に幽閉してしまい、これに晴元の妹婿で近江守護の六角義賢は激怒した。

 

 高政と義賢は呼応して挙兵、同年7月、高政は安見宗房・遊佐信教や根来衆1万兵を率いて岸和田城を包囲、義賢も2万兵を山城勝軍山城を派遣し、上洛をうかがった。

 

 これに対し、河内飯盛山城にあった長慶は摂津芥川山城主の嫡男・三好義興や大和信貴山城主の重臣・松永久秀を山城に派遣する。

 

 また、岸和田城の援軍には長慶の次弟で河内高屋城主・三好実休が大将として、これに三好長逸・康長・政康・篠原長房といった淡路・阿波兵が従い、久米田寺近くの貝吹山城に布陣した。

 

 対陣すること7ヶ月を経過した永禄5年(1562)3月、畠山軍の安見宗房・遊佐信教・湯川直光隊や根来衆が貝吹山城に攻め入った。

 

 乱戦の末、総大将の実休が根来衆の鉄砲隊に討ち取られてしまう。実休軍は総崩れとなり堺に逃れ、そのまま阿波や淡路に帰国、岸和田城や河内高屋城も高政の手に落ち、高政は和泉・南河内を取り戻した。

 

 これを知った京都の三好軍も山崎城や勝龍寺城まで撤退し、将軍・足利義輝を石清水八幡宮に移し、替って六角義賢が入京して京都を掌握した。

 

 

以下、現地案内板より

 

久米田寺

 

 久米田寺は、行基四十九院の一つに数えられる寺院で、天平10(738)年(一説に天平6年)に僧行基が久米田池の維持管理のために建立した隆池院に始まります。平安時代後期から鎌倉時代にかけて五摂家の一つ九条家の保護下に入ったものの一時荒廃したと伝えられ、鎌倉幕府の有力者安東蓮聖が東大寺僧より別当職を買得して復興に乗り出しました。弘安5(1282)年、西大寺叡尊を導師に招いて落成供養が営まれ、以後、真言宗・律宗・華厳宗兼学の寺院として、各地から多くの学僧がここに学び、高僧を輩出しました。
 南北朝時代には足利尊氏・直義兄弟が利生塔を全国で最初に久米田寺に建立し、仏舎利を奉納するなど、手厚く保護しましたが、一方、南朝も寺領を安堵するなど、久米田寺は両朝から保護を受けて繁栄しました。江戸時代以後は真言宗寺院となり、現在に至ります。
 寺宝の「星曼荼羅図」「仁王経曼荼羅図」「安東蓮聖像」「楠家文書」「大塔宮令旨」「久米田寺文書」「北畠覚空書状」は国の重要文化財に、境内は大阪府の史跡に指定されています。

 

平成23年3月 龍臥山 久米田寺・自主学習グループ みち・岸和田市教育委員会