陸奥 仙台城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①大手門脇櫓

イメージ 2②脇櫓内側

イメージ 3③大手門脇土塀

イメージ 4④本丸石垣

イメージ 5⑤本丸石垣

イメージ 6⑥詰の門跡

 

訪問日:1990年12月

 

所在地:仙台市青葉区

 

 天保12年(1841)伊達慶邦は17歳で仙台藩13代藩主に就任した。仙台藩は幕府から蝦夷地の警衛を命じられ、その担当範囲は択捉島・国後島などの千島列島を含む蝦夷地の3分の1を占めていた。蝦夷地の警衛に要する費用は膨大で、慶邦はその一部を仙台藩領に組み込むことを幕府に求め、許可されている。

 

 慶応4年(1868)慶邦が盟主となり、会津藩・庄内藩の朝敵赦免嘆願を目的とした奥羽列藩同盟が成立するが、赦免が新政府に拒絶されると新たな政権の確立を目的とした軍事同盟=奥羽越列藩同盟に発展する。

 

 新たに輪王寺宮(北白川宮能久親王)を迎えて盟主とし、慶邦と米沢藩主・上杉斉憲を総督とする組織構造が成立した。輪王寺宮を「東武皇帝」、慶邦を「権征夷大将軍」とする構想もあったという。

 

 米国公使は本国に「現在、日本には二人の帝がおり、北方政権が優勢」と伝え、1868年10月18日号のニューヨーク・タイムズは「JAPAN:Northern Choices of a New Mikado」と報じている。

 

 しかし結果は錦の御旗を掲げる薩長軍の勝利に終わり、降伏した仙台藩は全領土を没収され、慶邦は養子・宗敦(宇和島藩主・伊達宗城次男)とともに江戸に連行され、謹慎閉門を申し渡された。

 

 仙台藩の家督は慶邦の4男・宗基が28万石に減封された上で相続した。明治2年(1869)慶邦と宗敦は謹慎を解かれ、翌年宗敦は幼少の宗基に替わり知藩事となり、後に伊達男爵家を創設した。

 

 宗家当主は宗基のままで、後に伊達伯爵家となった。慶邦は明治7年(1874)50歳で死去している。

 

 

以下、現地案内板より

 

仙台城の歴史

 仙台城は初め千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代の末から室町時代の中頃にかけて島津氏が陸奥守として居城したといい、室町時代の末頃には国分荘の地頭国分氏が一時居城したともいい伝えられているが明でない。豊臣氏の頃、後の仙台藩祖伊達政宗公は天正19年(1591)以来58万石を領して玉造郡岩出山城に在ったが、慶長5年(1600)関ヶ原役に徳川家康を助け、石田三成と呼応した会津の上杉景勝を牽制し家康をして二正面同時作戦の不利を回避させた功により新に刈田郡を加増、仙台60万石(後ち近江、常陸で2万石加増)に封ぜられた。この時政宗公34才、大いに工を起して仙台城を築城、同時に、戸数1万8百人口5万2千の城下町を開いた。二代忠宗公に至って二ノ丸、三ノ丸を経営し、62万石の雄藩にふさわしい城郭を完成した。  かくして仙台城は、藩祖以来伊達氏、13代270年にわたり1度も戦火を被らなかった平和な城として郭内の殿舎、楼櫓を完全に保存して明治時代に至ったが、心なき俗吏によって破却せられ、あるいは火を失し、戦災に罹りなどして全滅に帰した。尚本丸の地は仙台七崎の一つ青葉ヶ崎で仙台城の俗称を青葉城とよぶのはこのためである。  

 

宮城県護国神社