①主郭
②主郭虎口
③主郭を望む
④鳴瀬川
訪問日:1998年11月
所在地:宮城県大崎市(旧志田郡三本木町)
鶴楯城主・黒川晴氏は永禄11年(1568)兄・稙家の死去により、46歳で家督を継いだ。奥州探題・大崎義兼の娘を妻に迎えたが男子はなく、妻の甥である義康を養子に迎えて伊達晴宗の姪を娶らせ、娘・竹乙を晴宗の3男・留守政景に嫁がせて大崎・伊達両氏に対応していた。
実質的に伊達氏は大崎氏を従属させており、晴氏は伊達氏傘下にあったが、天正16年(1588)伊達政宗が義康の実兄・大崎義隆を中新田城に攻めるに及び、婿・政景の援軍として桑折城にあった晴氏は伊達軍を後方から急襲し、新沼城に追い込んだが、政景もその中にいたため和睦を斡旋して引き上げた。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったとして晴氏は改易された。黒川郡を領した政宗は晴氏処刑を望んだが、政景のとりなしによって助命され、以降は政景のもとで余生を送り、慶長4年(1599)77歳で亡くなった。
義康は後に政宗に仕え、宮城郡西田中150石を与えられたが、寛永3年(1626)義康の子・季氏が嗣子なく没し、断絶となった。
以下、現地案内板より
桑折城趾(館山)記
桑折城趾(館山)は鶴丘又は小鶴丘とも呼ばれた。城は東西45間、南北10間、城主は天文年間(1532-52)から天正年間にかけて大崎家臣澁谷相模守といい、ついで大崎氏滅するに及び伊達氏直轄となる。二の丸は東西13間、南北22間という。本丸、二の丸共に北は鳴瀬川と距て大崎耕土に臨んで断崖をなし、南は蜿々起伏する丘陵を背景に東南部の城の麓には蛇沼の用水池を控えて要害の地をなしている。地形は概して険阻で敵を防ぎ味方を守る至便な城塞であった。頂上は標高572mで雄大な景観に富んだ展望台という典型的な城館である。
現在町の観光地として公園化されている。
現在町の観光地として公園化されている。
三本木町