①勤政殿
②勤政殿
③光化門
④建春門を望む
⑤旧朝鮮総督府庁舎
訪問日:1991年9月
所在地:大韓民国 ソウル特別市
1864年1月、李氏朝鮮25代国王・哲宗が後継者のないまま亡くなると、21代英祖の孫の養子の子(16代仁祖の9世孫)・李昰応は24代憲宗の実母・神貞王后と共謀して次男・明福(高宗)に王位を継承させることに成功する。
大院君(直系でない国王の実父に与えられる称号)となった昰応は幼少の高宗に代わり摂政となって国政を司り、人材の登用、小作人の撤廃などの改革を目指した。
1865年、大院君は270年ぶりとなる景福宮の再建に着手、翌1866年には高宗の王妃として閔茲暎(閔妃)を迎えるが、後に激しく対立することとなる。
対外的には孤立主義・排外主義を採り、1866年にはフランス人神父9名を含む約8000名といわれるカトリック信者の処刑を断行(丙寅教獄)し、フランス艦隊による江華島侵攻を招くが、これを撃退(丙寅洋擾)した。
さらに同年、通商を求めて平壌に現れた米国の商船・ジェネラル=シャーマン号が焼討され、乗組員全員が殺害されるという事件が起き、米国は報復として1871年、江華島を襲撃・占領する(辛未洋擾)が、大院君はあくまでも開国拒絶を貫き、米国を撤退させた。
しかし、大院君の政治は次第に独裁色を増し、批判が殺到するようになる。中でも大院君と鋭く対立する閔妃は神貞王后などの有力者と結び、1873年、大院君を失脚させ、高宗の親政を宣言する。
こうして閔妃の一族が政権を握ると開国への機運が高まり、1876年に日朝修好条規が締結されたのを機に、米・仏・露とも通商条約を結ぶ。
以来、大院君は閔妃とその一族との政争を繰返し、清や日本、ロシアなどの介入を招き、1882年の壬午事変、1884年の甲申事変、そして1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)・日清戦争と続く。
そして1895年、乙未事変で閔妃はついに暗殺されるが、大院君は政権に復帰することなく1898年、79歳で亡くなった。
これに先立つ1896年、高宗がロシア公使館に逃げ込み、景福宮には王が不在となり、その後正宮は1897年に慶運宮、1907年に昌徳宮に移る。
そして1910年の韓国併合条約により、景福宮の敷地には朝鮮総督府が建つこととなる(旧朝鮮総督府庁舎は1996年解体)。