土佐 高知城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①追手門と天守

イメージ 2②天守

イメージ 3③天守

イメージ 4④天守•詰門•廊下門

イメージ 5⑤天守・御殿

イメージ 6⑥天守から黒鉄門

 

訪問日:2000年5月

 

所在地:高知県高知市

 

 吉田東洋は文化13年(1816)土佐藩上士・吉田正清の4男として誕生、天保8年(1837)家僕を無礼討ちにして蟄居するが、天保12年(1841)父の死により家督を相続する。

 

 天保13年(1842)船奉行として出仕、同年郡奉行となり、13代藩主・山内豊熈の藩政に参与、弘化2年(1845)病により無役となりながら「時事五箇条」という意見書を提出した。

 

 弘化4年(1847)船奉行として再出仕、嘉永元年(1848)父を亡くした義理の甥・後藤象二郎を引き取って養育する。

 

 同年、豊熈の死去に伴い無役となり、嘉永4年(1851)上方を歴訪し見聞を広め、嘉永6年(1853)15代藩主・山内容堂に抜擢され大目付、次いで参政として藩政改革を主導した。

 

 安政3年(1855)参勤交代に従い江戸に出府して藤田東湖らと親交を結ぶが、酒の席で旗本を殴るという事件を起こして罷免され、家禄も減らされ隠居を余儀なくされた。

 

 帰郷後は私塾・少林塾を開き、象二郎ら若手藩士を教育するが、彼らは新おこぜ組と呼ばれる土佐藩の動向に大きな影響を与える一大勢力となる。

 

 安政4年(1857)赦免され、翌年に参政に復帰、「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易などの改革を推し進めるが、保守的な門閥勢力と尊皇攘夷の土佐勤王党の両者を敵に回すこととなる。

 

 そして文久2年(1862)武市半平太の指令で勤王党により暗殺された、享年47。11歳の息子・正春は象二郎に引き取られた。

 

 坂本龍馬の敵役で描かれることが多く、土佐人らしく短気が災いすることもあったが、改革を志すひとかどの人物だったのであろう。

 

 前述の私塾・少林塾からは後に逓信大臣や農商務大臣となる後藤象二郎をはじめ、自由民権運動の主導者・板垣退助、五箇条の御誓文の起草者・福岡孝弟、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎らを輩出している。