紀伊 弥勒寺山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②眺望

イメージ 3③顕如上人碑

イメージ 4④案内板

 

訪問日:2012年12月

 

所在地:和歌山県和歌山市

 

 鈴木孫一は雑賀衆の棟梁などが代々継承する名前とされ、諱としては重意・重兼・重秀・重朝・重次などが伝わる。よってこれらが混同されて正確なところはいまだによくわかっていない。

 

 重意は永正8年(1511)とされ、永禄5年(1562)教興寺の戦いで初めて登場する。そして元亀元年(1570)織田信長と三好三人衆の戦い、さらに三人衆に石山本願寺が味方して信長と戦った際には600余の鉄砲隊を率いて信長と戦ったという。長篠の戦い(天正3年・1575)より前の話である。

 

 本願寺との戦いに苦慮する信長は兵員・物資の補給拠点である雑賀攻略が本願寺打倒の早道と考え、天正5年(1577)までに雑賀五組のうち三組を調略し、10万の兵を紀州に送り込んだ。

 

 重意らは弥勒寺山城を中心とした雑賀川沿いに防衛線を構築し、ゲリラ戦に持ち込んで膠着状態となったところで信長に誓書を差し出して赦免された。足利義昭や毛利輝元は信長は敗北したと喧伝している。

 

 信長が紀州から撤退すると、重意は裏切った三組を追討し、再び本願寺と結んで信長に叛旗を翻すが、天正8年(1580)本願寺顕如が信長と和睦すると、重意も顕如の仲介で信長に降った。

 

 

以下、現地案内板より

 

弥勒寺山

 

 かって、この地に弥勒寺という寺院があったため、弥勒寺山と呼ぶ。
 天文19年(1550)に黒江(海南市)から移転した本願寺の紀州御坊は永禄6年(1563)に鷺森に移転するまで、この地にあった。このため御坊山とも呼ぶ。天正5年(1577)に織田信長が紀州雑賀を攻めた時、雑賀衆はこの山上に城を構えて防戦したという伝えがある。

 

和歌山市