紀伊 雑賀城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①養珠寺妙見堂

イメージ 2②妙見堂からの眺望

イメージ 3③紀三井寺方向遠望

イメージ 4④遠景

 

訪問日:2012年12月

 

所在地:和歌山県和歌山市

 

 天正8年(1580)織田信長と和睦した雑賀衆は親織田派の主流派と徹底抗戦を主張する本願寺顕如の子・教如に共感する土橋守重ら反主流派の抗争が顕在化し、天正10年(1582)正月、主流派の鈴木重秀(重意の子か)が守重を謀殺する。

 

 しかし、半年もたたない6月に本能寺の変が勃発し、危険を察知した重秀は翌日には和泉岸和田城の織田信張のもとに脱出する。

 

 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に雑賀衆は根来衆などとともに織田信雄・徳川家康側に連携して和泉に兵を出す中、重秀は羽柴秀吉方の鉄砲頭の一人として200を率いて参戦している。

 

 真偽のほどは疑問だが、重意は雑賀に留まり、信雄・家康に味方したため、天正13年(1585)秀吉の紀州征伐を受け、降伏した。重意はその存在を秀吉に危険視され藤堂高虎に謀殺されたという。

 

 この秀吉の紀州征伐で、重秀は太田城への降伏勧告の使者を務め、戦後息子を秀吉の人質に出した。その後の重秀の動向は不明である。

 

 人質に出されたのは重朝と考えられ、秀吉から1万石を与えられ鉄砲頭となり、小田原征伐における忍城攻め、朝鮮出兵では肥前名護屋城の在番を務めている。

 

 重朝は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻めで鳥居元忠を討ち取った。戦後浪人を経て伊達政宗に、後に徳川家康の直臣となり、その後水戸徳川頼房に仕えた。

 

 重朝の子・重次は頼房の11男を婿養子に迎えたため(鈴木重義)、子孫は水戸藩の重臣として代々雑賀孫一を名乗った。