尾張 鷲津砦 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①砦跡碑

イメージ 2②砦跡碑

イメージ 3③主郭部

イメージ 4④主郭部

イメージ 5⑤鷲津砦跡公園

 

訪問日:2013年5月

 

所在地:名古屋市緑区

 

 永禄3年(1560)桶狭間の戦いにおいて大高城を睨む鷲津砦には織田敏秀や飯尾定宗・尚清父子が守備についていた。

 

 そこに 今川義元の重臣で遠江掛川城主・朝比奈泰朝が同じく井伊谷城主・井伊直盛(直虎の父・後に桶狭間で討死)とともに攻めかかりこれを攻略、大高城の窮地を救った。しかし、義元が桶狭間でまさかの討死を遂げたため、砦を放棄して撤退した。

 

 遠江・三河の諸将の中には動揺して離反する者も現れたが、泰朝は義元の跡を継いだ今川氏真を支え、永禄5年(1562)には謀反の容疑がかかった直盛の養子・井伊直親を成敗した。

 

 永禄11年(1568)武田信玄が今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻し、氏真が駿府を追われると泰朝は掛川城に迎えてこれを保護した。

 

 同年末、徳川家康が遠江に押し寄せて掛川城を包囲すると、今川氏の重臣たちが次々に氏真を見捨てていく中、泰朝は奮闘して翌年5月まで籠城し、開城を受け入れて氏真に従って北条氏を頼り伊豆に退去した。

 

 元亀2年(1571)北条氏に見捨てられた氏真は家康を頼って浜松城に出向くが、泰朝はこれに従わず、その後の消息は不明である。

 

 現地案内板では鷲津砦を攻めたのは朝比奈泰能となっているが、弘治3年(1557)に病没しているようなので、嫡子・泰朝の事蹟とした。

 

 

以下、現地案内板より

 

鷲津砦跡

 

 大高城の北東約700mの丘陵上に築かれた砦で、大高城の今川勢を牽制するために織田方によて永禄2年に造られた。
 丸根砦とともに大高城を頂点とするこの鷲津砦は、二等辺三角形の底辺の両端に位置している。また、大高と鳴海を結ぶ交通路を押さえる位置にあたり、規模は東西25m、南北27mあったという(寛文村々覚書による)。
 永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いの緒戦には、飯尾定宗らが立てこもり、今川の重臣朝比奈泰能の軍勢に攻め立てられて全滅したといわれる。
 現在砦跡の境は明確ではないが、「鷲津砦跡」の碑石が建てられている。大高城跡とともに昭和13年に国の史跡に指定された。

 

名古屋市教育委員会