①主郭部分の砦跡碑
②主郭部分の砦跡碑
③主郭部分の砦跡碑
④遠景
⑤遠景
⑥大高城方向を見る
訪問日:2013年5月
所在地:名古屋市緑区
五器所城主・佐久間盛重は織田信長の弟・信勝(信行)付きの家老であったが、弘治2年(1556)信長と信勝が戦った稲生の戦いでは、同族の佐久間信盛とともに信長に与して橋本十蔵を討ち取る手柄を立てた。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでは今川方の大高城の東約800mの丸根砦を守備し、鷲津砦の織田秀敏とともに大高城を牽制していたが、今川方の松平元康(徳川家康)の猛攻により砦は陥落し、盛重は討死した。
盛重の子・盛昭は先祖ゆかりの越後国奥山荘から奥山氏を名乗り、丹羽長秀のち豊臣秀吉に仕え、越前国内に1万1千石を領した。その子・奥山正之は関ヶ原の戦いで西軍に与して除封、その兄の奥山重成は1千石の旗本として存続した。
また、盛重の二人の娘はそれぞれ、新庄直頼・佐久間盛政に嫁いだが、盛政の娘・虎御前は盛政が賎ヶ岳の戦いで討死した後に直頼の養女となり、盛政が討ち取った中川清秀の次男・秀成の正室となり、家中に嫌われながらも7人の子を成し、末子・勝成に佐久間家を再興させたという。
以下、現地案内板より
丸根砦跡
大高城が今川義元の手に落ちたあと、織田信長によって大高城を包囲するように築かれた砦の一つで、永禄2年(1559)、大高城の東側約800m、鳴海から延びる丘陵の先端に築かれた。
当時の今川方の基地である豊明の沓掛城から大高城への支援路を見下ろす位置にあり、現況は東西36m、南北28mの砦の周囲に幅3.6mの外堀をめぐらしている。
桶狭間の戦いのときには、佐久間盛重を将とした織田方が立てこもったが、大高城への兵糧入れを命ぜられた松平元康(徳川家康)が鉄砲を用いて攻撃し、激戦の後守備側は全滅したといわれる。
大高城跡とともに昭和13年国の指定史跡とされている。現在砦跡には、「丸根砦跡」の碑石が立つ。
名古屋市教育委員会
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