尾張 桶狭間今川陣 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①今川義元本陣跡

イメージ 2②本陣跡・瀬名陣所跡

イメージ 3③瀬名陣所

イメージ 4④戦評の松

イメージ 5⑤長福寺

イメージ 6⑥高根山有松神社

 

訪問日:2013年5月

 

所在地:名古屋市緑区

 

 桶狭間は現在の名古屋市緑区と豊明市にまたがる地域の汎称地名で、かつての尾張国知多郡桶廻間村がこれにあたる。

 

 信長公記によると今川義元は桶狭間山に本陣を構えたとあり、名古屋市緑区桶狭間北3丁目に最近碑が建てられているが、はっきりと場所が確定されているわけではない。

 

 瀬名氏俊(貞綱)は今川義元の姉妹を妻としているが、実弟の関口親永も義元の妹(井伊直平の娘を養妹としたとも)を妻としており、二人の間には徳川家康の正室・築山御前が生まれている。

 

 氏俊は桶狭間の戦いでは本隊の先発隊として偵察や陣所の設営などの任務にあり、先に大高城に向かっていたため直接の戦闘には関わっていなかった。

 

 氏俊のその後の消息は不明で、嫡男の氏詮(信輝)は永禄11年(1568)の武田信玄の駿河侵攻の際に武田氏に内応し、その子・政勝は徳川家康に仕えて旗本となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

おけはざま山  桶狭間合戦は永禄3年5月19日(1560年)

 

 信長公記に「今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」とある山は、この地で、合戦当時は、現在より8m程高い山であった。戦当日の午后1時頃は、大雷雨で前記の公期に、この雷雨を「余りの事に熱田大明神の神軍と申候なり」と記している。
 高地に着陣していた今川軍は、落雷により大混乱となっていた。武路の低地に潜入、攻撃の機を窺っていた織田軍は、好機なりと今川軍の右翼に突入した。槍を手から放して落雷を避けていた今川軍は武器を捨て、逃走した。追撃した織田軍は義元の塗輿を発見、信長は大音声直ちに本陣攻撃を命じた。
 今川軍は旗本三百余名、義元を中に円陣体形で退却中、士気上る織田軍は果敢な突撃を繰返した。今川軍は四散、義元は田楽坪に追い込まれて討死、午后4時頃、織田軍の勝鬨、狭間に谺していた。
 信長は永禄10年(1567年)稲葉城を攻略。天下布武を宣言、翌年足利義照を奉じて上洛、以来奮戦すること20年、天下大半を制して、天正7年(1579年)安土に天下無双の城を築上、その間に、兵農分離、楽市楽座、関税廃止、インフラ整備等、彼の理想とする撫育民姓政策を実践、庶民を権門より開放して、農・工・商業の自立自栄の途を拓いた。
 信長の熱い思ひは、秀吉、家康に継がれて、250年間戦争の無い平和な近世を作った。
 近世の第一歩は、この地この山から踏み出されたのである。みやびあけぼのの名も、この古事から名付けたものである。

 

平成21年1月設置 梶野 渡

 

 

瀬名陣所跡

 

 永禄3年5月17日、今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約二百名が先発隊として着陣し、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将今川義元が19日に昼食する時の本陣の設営をしました。
 その時、瀬名伊予守氏俊が着陣した陣所あとです。古伝によれば、東西15m、南北38mくらいで、これより奥に位置します。
 当時は「トチの木林」で、地盤が高く陣所の形態を留めていましたが、その後は竹林になり、里人は瀬名氏俊をしのび「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいます。昭和61年池の堤防工事によりセナ薮も取り壊され、今は、竹をわずかに残しています。

 

有松桶狭間観光振興協議会

 

 

戦評の松

 

 永禄3年(1560)桶狭間の合戦のとき、今川方の将瀬名伊予守氏俊が、かつてここにあった松の根元に武将を集め、戦いの評議をしたと伝えられる。
 この松は、昔から村人に「一本松」とか「大松」と呼ばれ親しまれていたが、これまでに台風や虫害の被害を受けて、惜しくも枯死している。
 現在の松は、当時の戦評定をしのぶ場所として植樹したものである。

 

名古屋市教育委員会

 

 

長福寺略縁起

 

 和光山天澤院と号する浄土宗西山派(現称、西山浄土宗)の寺院。天文7年(1538)、善空南立上人の中興開山。永禄3年(1560)5月、今川義元の軍勢が、桶狭間に到来すると、この寺の僧は酒食を献じたと伝えられる。この後、戦況は織田信長に有利に展開し、今川義元はこの地で討死する。
 寺伝に依れば、当山は今川義元に仕える林阿弥が、今川方武将の首検証を命じられた所で、境内の放生池は、別名「血刀濯ぎの池」と言われている。御本尊の阿弥陀如来像は、林阿弥が駿府から持参したもので、今川義元ら戦没者を供養するために奉安されたものである。駿府から寄付された諸品の内に、今川義元の御霊像があったが、火災のために焼失したという。現在、当山に安置される今川義元像は、今川家の縁者、渡邊家(三河 江原村)が、正徳4年(1714)に奉納したものである。
 当山は、信州善光寺の分身如来を奉安する知多郡の四十八願所、知多板東三十三観音霊場、尾張新四国八十八所であるので、往昔は遍路人の姿も見ることができた。歴史上の参詣者に、尾張藩主の徳川吉通(第4代)、江戸城の無血開城に尽力した山岡鉄舟、岩倉使節団に随行した東久世通禧、昭和天皇に俳句を御進講した富安風生らがいる。
 境内には、阿弥陀堂(本堂)・地蔵堂・観音堂・薬師堂(納骨堂)・鐘楼・合同墓のほかに、林阿弥の首検証跡、血刀濯ぎの池、桶狭間発祥の地(泉)がある。

 

寺宝 
今川義元像と古位牌 松井重信像 當麻曼荼羅(一幅)涅槃図(一幅)法然上人御絵伝(四幅)地獄十王御絵伝(十四幅) 他

 

 

高根山

 

 この地は、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦の時、今川軍の戦陣として松井宗信率いる約千名が着陣したところで、この辺りで一番高く、(標高50m)鳴海城と織田軍の善照寺砦や中島砦が一望できました。又、織田軍の別動隊で佐々政次、千秋季忠が率いる軍と激戦してこれを打ち破りました。
 その間、信長率いる本隊約二千の軍は、中島砦から北方に見える丘陵の狭間を抜けて密かに今川義元本隊が陣取る、桶狭間武路釜ヶ谷へと向かっていきました。尚、南方の山続きで幕山、巻山には、今川軍の井伊直盛率いる約千五百が陣取っていました。

 

有松桶狭間観光振興協議会