若狭 凌霄山 常高寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①山門

イメージ 2②境内

イメージ 3③書院

イメージ 4④庭園

イメージ 5⑤常高院墓

イメージ 6⑥石段

 

訪問日:2016年5月

 

所在地:福井県小浜市

 

 浅井長政の次女・初は豊臣秀吉の計らいにより、浅井氏の主筋で当時近江大溝城1万石の城主であった従兄(母が浅井久政娘・京極マリア)の京極高次に輿入れする。

 

 高次は秀吉により、天正18年(1590)に近江八幡山城2万8千石、文禄4年(1595)には近江大津城6万石と加増された。この間の文禄2年(1593)に側室・山田氏が庶長子・忠高を産んでいる。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで高次は忠高を西軍に人質に出しながらも東軍に与して大津城に籠城し、西軍の主力を足止めした。功績により高次は若狭一国8万5千石を与えられた。

 

 実子のない初は慶長11年(1606)妹・江の子である徳川秀忠の4女(5歳)を養女として忠高(14歳)の正室としている。

 

 慶長14年(1609)高次と死別し、剃髪して常高院と号す。この頃、姉・淀殿の子である豊臣秀頼と妹の舅である徳川家康との確執が表面化してくる。

 

 常高院は豊臣方の使者として奔走し、慶長19年(1614)大坂冬の陣での講和は、常高院の仲介で徳川方の忠高の陣で行われた。

 

 しかしそれも空しく翌元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡すると、秀頼の娘(天秀尼)の助命を嘆願し、千姫の養女として寺に入れることを条件に認められた。

 

 寛永7年(1630)常高寺を創建、3年後の寛永10年(1633)京極氏江戸屋敷で没(64歳)、京極氏が国替えとなっても常高寺は若狭に残すよう遺言し、翌寛永11年(1634)忠高は出雲松江藩に移封となるが、その後も常高院は京極氏の庇護を受け、常高院の墓もここに残されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

常高寺

 

浅井三姉妹の次女として生まれたお初(常高院)が、夫・京極高次の菩提を弔い、さらに父母・浅井長政とお市の方らの供養のため、若狭小浜の後瀬山山麓に建立を発願。小浜出身の槐堂周虎禅師を迎えて開山とした。お初は大坂冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)で和平の使者として徳川、豊臣両家の間を奔走したことでも歴史にその名を残している。寛永10年(1633年)にお初が江戸で亡くなると、その遺体は小浜まで運ばれ、常高寺に埋葬された。お初の墓所の周りには7人の侍女の墓も残っている。常高寺には、お初の貴重な肖像画、自筆の消息も現存しており、書院に残る壁画など、往時の盛運を偲ばせる。
 
 
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