若狭 後瀬山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①主郭

イメージ 2②主郭石垣

イメージ 3③山上御殿土塁•築山

イメージ 4④主郭を望む

イメージ 5⑤曲輪と堀切

イメージ 6⑥背後の堀切

 

訪問日:2016年5月

 

所在地:福井県小浜市

 

 永禄10年(1567)武田義統が亡くなり、6歳(16歳とも)の元明が家督を継ぐが、翌永禄11年(1568)越前の朝倉義景が若狭に侵攻し、後瀬山城を囲んだ。元明は捕えられ、一乗谷朝倉館での居住を強いられ、武田氏は領国を失った。

 

 天正元年(1573)織田信長により朝倉氏が滅亡して元明は解放されたが、若狭一国は信長重臣・丹羽長秀が領して後瀬山城に入った。元明は近くの神宮寺に入った。

 

 天正9年(1581)旧家臣の大飯郡高浜城8千石の城主・逸見昌経が死去すると信長はこれを没収し、うち3千石を元明に与えて石山城に入り、長秀の与力となった。

 

 天正10年(1582)本能寺の変が勃発すると、元明は若狭を回復する好機と見て明智光秀に与して長秀の本城・佐和山城を義兄・京極高次とともに攻略した。

 

 しかし、山崎の戦いで光秀は討死し、夢が潰えた元明は恭順の意を示そうとして、長秀の招きに応じて近江海津の法雲寺に出向くが謀殺された。21歳あるいは31歳。

 

 元明の正室・京極龍子(松の丸殿)は捕えられた後に羽柴秀吉の側室となり、兄・高次の助命とその後の出世に貢献している。

 

 その子・義勝は武田姓を憚り、津川姓を称して高次に仕えた。関ヶ原の戦いの後、高次が若狭一国の領主となると高浜城5千石を与えられて佐々木氏と改称し、京極氏重臣に列した。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 後瀬山城跡  指定年月日 平成9年5月23日  時代 16世紀(1522~1600)

 

 いにしえは万葉集にも詠われた後瀬山。古くから小浜に住む人々、また小浜を訪れる人々に憩いをもたらす山として存在しています。この後瀬山に戦国の世に叶った山城が築城されたのは、大永2年(1522)のことです。当時の若狭守護武田元光は、すでに全国的にも飛躍をみせ、海外貿易をも視野にいれた小浜湊を望み、山麓に貫通する丹後街道を掌握する要衝の地にこの城の縄張りを行います。
 後瀬山城は標高168mの位置に石垣を配する主郭を置き、ここから山麓の現空印寺の位置にあった居館に通じる北側稜線と、本登山道に平行する東側稜線に、大小あわせて139ヶ所の曲輪と呼ばれる平場の防御施設を設けています。これら2本の稜線に造られる曲輪をつなぐ道路が北東谷間に幾本もみられ「谷の横道」と呼ばれています。また、北側稜線の先端には、畝状竪堀・竪堀などを設け、防御を固めています。このことは、丹後国守護一色氏と度々戦火を交えた若狭武田氏が、西の小浜への入り口(青井口)の防御を強く意識していることを想定させます。
 城主は、築城した若狭武田氏5代 元光から、6代 信豊、7代 義統、8代 元明へと継承され、若狭武田氏滅亡後は、織豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、若狭国を統治する拠点として存続します。そして関ケ原合戦後に入国する京極高次により後瀬山城は廃城となり、新しく築城が開始される近世小浜城にその役目が引き継がれることとなります。
 発掘調査が実施された主郭北西に位置する曲輪では、礎石建物跡とこれに付属する築山、そして多くの茶器類が検出されています。京都や当地において旺盛な文芸活動をみせた若狭武田氏の一端を示す調査例といえるでしょう。
 現在地からの登山道は、廃城後に主郭に創建された愛宕神社への参詣道を利用し、歴史と自然を体感できるように遊歩道整備をしています。

 

小浜市