近江 八幡山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①二の丸石垣

イメージ 2②本丸桝形

イメージ 3③本丸虎口

イメージ 4④八幡堀

イメージ 5⑤八幡堀

イメージ 6⑥遠景

 

訪問日:2000年3月(④⑤⑥) 2000年12月(①②③)

 

所在地:滋賀県近江八幡市

 

 永禄11年(1568)尾張知多郡大高村の弥助・とも夫妻の間に長男として生まれた治兵衛は、4歳となった元亀3年(1572)、叔父である織田氏家臣・木下秀吉が敵対する浅井氏家臣・宮部継潤を調略する際に人質となり、そのまま養子となって宮部次兵衛尉吉継と名乗った。

 

 天正元年(1573)浅井氏が滅亡すると小谷城は秀吉に与えられ、継潤は秀吉の与力となり、治兵衛は羽柴氏と改姓した秀吉のもとに帰されたと思われる。

 

 時期は不確定だが、天正10年(1582)本能寺の変の前後、急速に勢力を伸ばす長宗我部元親に対抗するため、秀吉を味方としたい三好康長の養子となり、三好孫七郎信吉と名乗った。

 

 康長と実子の康俊は天正11年(1583)までには一線を退き、信吉が残った三好氏家臣を引き継ぎ、河内北山2万石の大名となった。また、父・弥助もこの時から三好吉房と名乗った。

 

 17歳となった天正12年(1584)には羽柴氏に復するが、同年の小牧・長久手の戦いで壊滅的な大敗を喫するという失態を演じ、秀吉から激しい叱責を受ける。

 

 天正13年(1585)紀州征伐・四国征伐では副将として無難に務め、同年の秀吉の関白就任に前後して、羽柴秀次と改名し、近江43万石の大名となり、安土城を廃して新たに八幡山城を築いた。