肥後 人吉城(原城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①遠景

 

訪問日:2009年4月

 

所在地:熊本県人吉市

 

 肥後相良氏初代の相良長頼は治承元年(1177)遠江相良荘で生まれた。建久4年(1193)父・頼景が遠江守・安田義定に逆らい、源頼朝により相良荘の大半を失い、肥後国球磨郡多良木荘(上球磨)に追放される。

 

 長頼はわずかに残った相良荘の一部を相続して遠江に留まったが、建久9年(1198)頼朝に命じられて下球磨に下向、ここを領する平頼盛(清盛異母弟)の代官・矢瀬主馬佑を中球磨を領する平川義高の支援を得て矢瀬一族を滅ぼし、人吉城を奪取して帰国した。

 

 建久10年(1199)頼朝の死に伴い出家、権力を掌握した北条氏に従い、元久2年(1205)畠山重忠の乱における武蔵国二俣川の戦いで武功を挙げ、肥後国球磨郡人吉荘の地頭に任じられた。

 

 さらに承久3年(1221)承久の乱における宇治川の戦いなどでも武功を挙げ、北条義時より、相良荘の旧領を回復し、加えて播磨国飾磨郡などの荘園を得た。

 

 安貞元年(1227)父の遺領である多良木荘を相続、さらに中球磨の平川義高を血敷原の戦いで破り、平川氏一族を滅ぼしている。

 

 寛元元年(1243)甥である相良頼重と肥後国山鹿郡泉新荘を巡って争ったことを咎められ、人吉荘北半を北条氏に取り上げられている。

 

 建長6年(1254)長頼は人吉で没、78歳だった。以降肥後相良氏は明治4年(1871)35代・相良頼基の時に廃藩置県を迎えるまで、800年近くもの間、相良氏が人吉を統治し続けた。

 

 

以下、現地案内板より

 

中世の人吉城

 

平安時代の末、人吉城には人吉荘代官の矢瀬主馬祐が城主としていたとされる。建久9年(1198)に下向した相良長頼は矢瀬氏を滅ぼし、翌年から人吉城の修築を始める。この修築の時、城内から三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城ともいう。安土桃山時代に20代長毎によって石垣造りの城を新しく築造するまでの、およそ400年間、相良氏の居城として使われている。
 この中世の人吉城の遺跡は、現在史跡となっている人吉城跡の南側の台地上に通称「原城」と呼ばれる広大な山城として残されている。城は素掘りの空堀や堀切によって「上原城」、「中原城」、「下原城」、「内の御城」、「西の丸」等と呼ばれるいくつかの曲輪に区画され、城の中には、掘立柱建物や礎石建物、半地下式建物などの建物があったことが、発掘調査で確認されている。また、城内の一角には南九州では類例の少ない「畝状空堀群」と呼ばれる特殊な空堀も確認されている。