肥後 宇土城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②小西行長像

イメージ 3③石垣

イメージ 4④石垣

イメージ 5⑤復元石垣

イメージ 6⑥復元石垣

 

訪問日:2009年4月

 

所在地:熊本県宇土市

 

 小西行長は天正12年(1584)27歳の時にキリシタンとなり、アウグスティヌス(アゴスチノ)という洗礼名を受けた。父・隆佐もすでに永禄8年(1565)に受洗している。

 

 豊臣秀吉より舟奉行に任じられて水軍を率い、天正13年(1585)摂津守となり、豊臣姓を賜った。同年、小豆島に1万石を与えられた。

 

 天正16年(1588)肥後国人一揆平定の功により、肥後南半国20万石余を与えられ、天正17年(1589)水城としての機能を持つ宇土城を築く。

 

 肥後北半国19万5千石を領し、熱心な日蓮宗徒である加藤清正とは強烈なライバル関係にあり、文禄元年(1592)からの文禄の役では先鋒として清正に先んじて漢城を制した。

 

 しかし、講和交渉での明側の秀吉を日本国王に封じるとの内容に秀吉が激怒し、交渉の主導者であった行長は一時死を命じられるが、前田利家らのとりなしで救われた。

 

 慶長2年(1597)からの慶長の役にも出陣し、翌年の秀吉の死により撤退戦を強いられるが、無事に帰国した。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、西軍に与して奮戦するも敗れて捕縛され、市中引き回しの後、六条河原で斬首された。43歳であった。

 

 

以下、現地案内板より

 

宇土城跡(城山) 市指定史跡

 

 天正16年(1588)、小西行長は宇土・益城・八代・天草を拝領し、翌17年からこの地に新城を築き始めた。また、支配体制を整えるために、領内の隈庄城(城南町)、木山城(益城町)、岩尾・愛藤寺城(矢部町)、麦島城(八代市)を支城とし、城代を置いた。
 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際し、豊臣秀吉は、行長を一番隊の隊長に任命した。この戦役の間、行長は和平実現のため幾度となく会談し、家臣の内藤如安は北京において明国との交渉にあたった。
 慶長5年(1600)、行長は西軍に参加し、関ヶ原で戦った。このとき、加藤清正は宇土城を攻め、行長の弟隼人は城を死守していたが、行長処刑が知らされると開城した。
 その後、肥後一円は加藤領となり、宇土城にも城代を置いた。
 清正は、この城を隠居所とするために普請を行ったが、慶長16年(1611)に没し、翌17年、幕府の命令により城は破却された。また、天草・島原の乱後、城は徹底的に壊され、正保3年(1646)に、宇土細川藩が成立したが、築城は許されず陣屋を構えたため、以後、城を築くことはなかった。

 

 城は、東西550m、南北500m、面積20万㎡の規模を誇る。
 本丸は高さ10数mの石垣を築き内堀を巡らす。ほかに二ノ丸、三ノ丸などの郭を置き外堀を巡らし、周囲の沼地と共に城の守りを堅固にしていた。
 城跡からは、石垣・建物・門・井戸などが発掘され、瓦も多量に出土、また本丸の地下2mにも城の遺構があり、焼けた建物跡からは、鉄砲玉や鎧などが、さらに下層からは、中世・古墳時代・弥生時代の土器が多量に出土している。

 

 

旧城 宇土城跡(西岡台)国指定史跡  陣屋 新小路町(中央公民館付近)

 

日本国内では清正に比べると評価は低いが、欧州では信仰に篤い、忠義を重んじる武将として評価され、1607年にはイタリア・ジェノバで行長を主人公とする音楽劇「AGOSTINO TZVNICAMINDONO」が制作されるほどであった。