肥後 隈本城(千葉城) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①千葉城公園

 

訪問日:2004年5月

 

所在地:熊本市中央区(当時は政令指定都市ではなかった)

 

 隈本城は文明年間(1469-87)に肥後守護・菊池重朝の一族・出田秀信が現在の千葉城町(NHK熊本放送局)一帯に小規模な城を築いたのが初見である。

 

 秀信は文明17年(1485)重朝に従い、御船陣原で相良氏・阿蘇氏の連合軍と戦って討死、これをきっかけに出田氏は衰えていった。

 

 大永・享禄年間(1521-31)、豊後大友氏からの養子である菊池義武(大友義鑑の弟)により、非菊池氏系の国人・鹿子木親員(寂心)が家老として出田氏に替わり千葉城に入ったが、手狭だったために現在の古城町に新たに城を築いて移転した。

 

 しかし、天文3年(1534)義武が義鑑と対立して大内義隆や相良氏と結んで独立すると、寂心は天文5年(1536)頃に離反して義武や相良氏と戦った。

 

 義武はやがて相良氏を頼って没落、天文9年(1540)相良氏の支援を得た義武に隈本城(古城)を攻められるも寂心はこれを撃退した。

 

 寂心は文人として知られ、三条西実隆から源氏物語を購入し、自らの和歌4首も伝わっている。また、藤崎八旛宮の遷宮を行い、天文11年(1542)には後奈良天皇より勅額の下賜を得ている。

 

 親員は天文18年(1549)に亡くなる。嫡男・親俊はすでに父に先立っていたので、その子・鎮有が家督を継いだ。

 

 天文19年(1550)義鑑が謀反(二階崩れの変)により殺害されると、鎮有は義武に帰参し、隈本城に義武を迎え入れた。

 

 しかし、義鑑の嫡子・義鎮(宗麟)が派遣した大軍により隈本城は落城し、義武・鎮有は没落し、隈本城には義鎮方の城親冬が入った。