肥後 熊本城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①宇土櫓

イメージ 2②長塀

イメージ 3③大小天守

イメージ 4④飯田丸五階櫓

イメージ 5⑤竹の丸から天守

イメージ 6⑥本丸御殿昭君の間

 

訪問日:2004年5月(①②) 2009年4月(③④⑤⑥)

 

所在地:熊本市中央区(当時は政令指定都市ではなかった)

 

 西南戦争で52日間にわたり熊本城を守りきった谷干城は天保8年(1837)土佐の儒学者の子として生まれた。数え23歳で江戸に出て、帰国後は土佐藩校・致道館で史学助教授となる。

 

 文久元年(1861)武市半平太と知り合い尊皇攘夷思想に傾倒し、慶応2年(1866)長崎視察で1歳年長の坂本龍馬、1歳年下の後藤象二郎と交流する。

 

 慶応3年(1867)中岡慎太郎の仲介で板垣退助らとともに京都で後に敵味方となる薩摩の西郷隆盛らと会い、武力倒幕のための軍事同盟(薩土密約)を結ぶ。

 

 しかし当時、土佐藩主・山内容堂は公武合体路線であったため、この密約は私的なものであり、同年坂本が提唱する大政奉還論に沿った薩土盟約が結ばれる。

 

 明治元年(1868)の戊辰戦争では板垣の下で北関東・会津戦線に活躍する。明治4年(1871)の廃藩後、新政府に出仕して陸軍少将となった。

 

 明治6年(1873)から1年間熊本鎮台司令長官を務め、明治7年(1874)台湾出兵を挟み、明治9年(1876)神風連の乱の後に同職に復帰し、翌年の西南戦争を迎える。

 

 功により陸軍中将に昇進し、陸軍士官学校長となる。しかし台湾出兵時の将兵の遺体の取り扱いについて政府・陸軍首脳部が事実を放置していたことに抗議して明治14年(1881)辞任した。

 

 その後は政治家に転身し、明治18年(1885)第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、内閣の欧化政策に反対し、条約改正問題で2年後に辞任した。

 

 その後は貴族院議員として、国粋主義・農本主義の立場をとり、土佐派の重鎮として重きをなした。

 

 明治37年(1904)から始まる日露戦争には、健全財政論・防御中心の軍備を主張して開戦に反対した。明治44年(1911)75歳にて没。